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夢見る力を創造力に変えて・・・
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b05729c8.jpg 今年は、北国では大雪の被害も出て、例年以上に寒波に見舞われた厳しい冬でしたが、それでも間もなく立春を迎え、芽生えの春が訪れようとしています。
 
 
節分とは、それぞれの季節のはじまりの日として、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指します。また、季節を分けることも意味しており、とくに江戸以降は新しい年のはじまりを尊び、ことさら立春の前日を祝い清める民習が定着しました。
 
 
古来より季節の変わり目には、邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊払いが行われたと伝えられています。続日本紀によれば、慶雲三年(706年)に”追儀”の行事がはじまったとされ、平安時代には宮中で彩色した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾ったといわれます。
 
 
鎌倉期には、土人形に代わって桃の枝で邪気を追い払うようになり、室町頃には桃の枝に代わって炒った豆で鬼を追い払うようになり、より現在に近い行事となります。これが、現代の豆撒きの起源とされています。
 
 
豆まきの後、一年の厄除けを願って豆を食べる習慣が定着していますが、地域によっては大豆ではなく落花生で豆まきをするところもあるとか。また、節分というと恵方(吉方位)を向いて巻き寿司を丸かぶりするという習慣も今では各地に浸透しつつありますが、こちらの方は関西発祥の行事だそうです。
 
 
ちなみに、縁起がよいとされる今年2011年の恵方は南南東。ちょうど、暖かい春がやってくる方角ですね。
 
 
ビーイングカスタマー
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「人間五十年、化天(下天)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。」 (幸若の舞の一節「敦盛」より)


戦国武将 織田信長が好んだ曲舞で、第三幕からなる幸若舞の敦盛の二段目からを引用されたものです。


『敦盛(あつもり)』
さるほどに、熊谷は経盛の返状をよくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。
今月十六日に讃岐八島を攻めらるべしと聞いてあり、我も人も憂き世にながらえて、かかる物憂き目にも、また直実やあはずらめ。

思えば、此の世は常の住みかにあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほはやし。
金谷に花を詠し、栄花は先立って無常の風に誘わるる。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて有為の雲に隠れり。

人間五十年、化天(下天)のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと思い定め・・・


と、曲舞はかなりの長さですが、これでも二段目からすればほんの一部分です。


さて、縄文や弥生時代はともかくとして、人の寿命は果たして延びているのでしょうか・・・ とくにデータが残されている訳ではありませんが、戦国時代から現代に至るまで、人の寿命は思うほど延びている訳でもなさそうです。


たとえば、織田信長によって「人間五十年、下天の内を比ぶれば夢幻のごとくなり…」と幸若舞が舞われた時代は、何しろ、盲腸でも大半の人は死んだのですから、当時の新生児の死亡率や結核、その他の疾病の治癒率などを考えれば、五十年は決して短い人生とはいえません。


ある説によると、人の寿命は本来120年あるのだそうです。ただし、気候が穏やかでウイルスにも感染せず、理想的な食事をして、ストレスを感じることもなく、有害な化学物質にも触れないなど、リスクが一切排除された環境下ならという条件つきですが・・・


昔も今も、ストレスを感じることなく過ごすなんて夢のまた夢。ほぼ皆無に等しいに違いありません。


医療が発達した現代に置き換えても、「人間五十年・・・」は人の人生に当てはまる様な気がします。何故なら、今の世の中は近代医療と福祉によって単に生かされているだけの様な気がするからです。誕生し、物心つくまで無邪気に人に甘えていられた幼年期、親に反発する少年期、毎日の日課が病院通いで物忘れが酷くなり、次第に脳細胞が死滅していく晩年の十数年を差し引くと、やはり人間五十年というのは現実味を帯びてきます。


特別養護老人施設で介護を受け、病院のICUで機械的に無為に生かされている時間を、果たして”人生”というべきなのか、私は時々疑問に感じています。健康で、社会や地域の一員として、何らかの貢献をしつつ、有意義に生きられる時間は哀しいかな五十年余り・・・


一度きりしかない貴重な五十年だからこそ一日も無駄にしてはならないと、先人たちが私たちに伝えてくれているような気がします。


人生の最期を迎える日まで、一日でも長く自由を謳歌し、ほんの少しでも誰かの役に立つ人間でいたい・・・ 私自身が「ライフスイッチ」「ニンチノン」に期待することは、いつか訪れる”天命”の日まで、社会と関わりを持ち続けられる身体でいるということです。


最高執行責任統括者 社長 小川哲司
 

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”おもしろき こともなき世を おもしろく”
 
この句は、幕末の世の中を一陣の風のように駆け抜けた長州藩士 高杉晋作(たかすぎしんさく)の辞世の句です。
 
 
晋作は、気性の激しい一面を持つ秀才でしたが、詩人でもあり、女性にはかなりモテたようでした。晋作には雅子(長州藩 奉行の娘)という正妻がいましたが、萩城下の遊郭の芸妓、此の糸(このいと)=おうのと出会い、桂小五郎や伊藤博文が心配するのを尻目に二人は意気投合して、晋作はおうのを身請けし、以後は時間の許す限り時間をともに過ごしました。
 
 
晋作は、萩城下菊屋横丁で二百石の長州藩中級武士の長男坊として生まれます。十四歳で明倫館、十九歳で松下村塾に入門。吉田松陰は入門当初から晋作の才能を見抜いていたといわれ、久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧と呼ばれたそうです。
 
 
激しい気性から、”暴れ牛”とあだ名された晋作が表舞台に登場したのは、長州征伐が間近に迫り、また英、米、仏、蘭の四カ国連合艦隊が、攘夷を実行した長州藩に報復攻撃をしかけてきた、長州藩にとっては藩の存亡に関わる大ピンチの時期でした。晋作は、結成して間もない奇兵隊八十名で、長州藩の正規軍を破り、幕府寄りに傾こうとしていた藩のスタンスを一気に討幕へと一変させます。
 
 
奇兵隊は、文久三年(1863)に豪商 白石正一郎の屋敷で結成されました。正一郎自身も奇兵隊結成に加わり、晋作を物心両面で支援しました。この奇兵隊の結成が、藩内のムードを決定づけ、維新へと導いたと見るべきだと考えられます。また、維新を解き明かす鍵の一つが奇兵隊にあるともいわれています。
 
 
奇兵隊の注目すべき一番の特徴は、”志”があれば庶民でも入隊を許された軍隊組織だったというところです。つまり、武士だけが戦力(武力集団)というこれまでの既成概念を覆すと同時に、長州においては、多くの民衆が新しい時代の到来を予感できる存在になり得たのでした。
 
 
慶応二年(1866)、薩長同盟成立直後の第二次長州征伐では、労咳(ろうがい)に冒された体に鞭打って、晋作は長州藩の海軍総督として全身全霊の活躍をします。とくに、奇兵隊などの諸隊を率いて僅か三千の兵で幕府軍に立ち向かい、小倉口では十五万の幕府軍を撃退。こうして幕府の長州征伐は失敗に終わりました。
 
 
晋作は、藩の存亡と討幕の夢を賭けた戦いには勝利しましたが、病魔には勝てませんでした。小倉口での勝利した翌年、庄屋 林算九郎の離屋で床についてしまい、おうのの必死の看病も甲斐なく、慶応三年四月十四日、晋作は夢半ばに二十七歳の若さで生涯を閉じてしまいます。晋作の遺体は桂小五郎や伊藤博文、奇兵隊の隊士らによって吉田清水山の奇兵隊本陣近くに埋葬されました。
 
 
その後、晋作の墓守をするおうののために、盟友の白石正一郎らが庵(いおり)を建立し、東行庵と名づけています。庵の碑には「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」と、伊藤博文が記した碑銘文が刻まれています。東行庵は、今でも市民や歴史愛好家に親しまれ、多くの人が訪れます。
 
 
晋作は、新しい時代を見届けることなく若い命を散らしました。しかし、混沌の時代に武家の時代から民衆の時代の到来を、人々に確信させた功績は計り知れないほど大きかったように思います。幕末期の晋作の活躍は、恐らく当時の長州藩の誰の持論や言葉よりも、民衆の心を捉えたに違いありません。
 
 
高杉晋作は長州を維新へと導き、一陣の風のように幕末を駆け抜けました。そんな高杉晋作の生き様に触れるたびに、社長としてビーイングを束ね、統括している私 小川哲司の心をいつも熱くしてくれます・・・。
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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ビーイングは、ロストポジション復活キャンペーンを企画しました。ロストポジション復活は、12月1日~1月31まで実施します。
 
 
この企画は、かつて会員だった方からの1本のお電話からはじまりました。不況の煽りでリストラを受け、経済的な理由からビーイングを去った方でした。それから半年、それでもビーイングへの想いは捨てきれずに相談されたのでした。こうして、カスタマーセンターへの1本のお電話から企画が実現しました。
 
 
私たちは、お陰さまで設立3周年を迎えることができました。そして、かつて構想だったマルチリンクマーケットもようやくスタートしました。
 
 
振り返れば、ビーイングが創業した直後の社会環境は、リーマンショックに続く世界規模の金融危機の真っ只中で、世の中そのものが決して追い風の状況ではなく、マーケティングプランの変更や軌道修正など、会社にとっても選択を迫られ、試行錯誤を繰り返さなければならない助走の時期でした。
 
 
そんな、創生期のビーイングを支えてくださりながら、様々な理由でポジションを失ってしまった方々に、ビーイングが目指す道をふたたび一緒に歩んでいただくことはできないものかと検討した結果、システム会社の協力も得られることになりました。幸いにして、例年12月~1月末の期間には大規模なシステムメンテナンスを行なうため、この機会を活かして失った旧ポジションを復活させ、もう一度ビーイングに取組んでいただくことができます。 詳しくは、ビーイングホームページをご覧ください。
 
 
私の指導のもとに、ビーイングは大勢の皆さんの想いを乗せて、一歩ずつ夢に向かって邁進しています。私たちとともに歩むご希望があれば、私、小川哲司はあなたを歓迎します。
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司

b7ec0024.jpg 小曾根乾堂(こぞねけんどう)は、今となっては多くの事実が歴史に埋没していますが、商人として、文人として、識者として、外国通として、そして地域振興のキーマンとして名を馳せ、自身の才能と私財投じて日本の近代化に貢献した人でした。
 
 
幕末期は、コネクションやネットワークに長けていていたため、勤皇派や佐幕派を問わず一目置かれる存在で、しかも篆刻、書画、音曲、骨董と、何をさせても一流で多芸多才で私が個人的にすごく興味を抱いている人物です。
 
 
乾堂は、長崎屈指の豪商の家に生まれ、文芸に造詣の深かった父親 六左衛門の期待を受けて、幼い頃から書や南画、篆刻(てんこく)、詩や和歌などを熱心に学んで、感性豊かで多趣味な青年に成長しました。
 
 
書は春老谷、水野眉川などの名書家に学び、とくに篆刻では少年の頃から秀でており、自身で印譜「乾堂印譜」「乾堂印藪」を刊行するなどして高い評価を受け、十四代将軍家茂に謁見して隷書を献上したり、幕末から維新にかけては、度々国璽の改刻を建議したりと活躍しています。音楽にも興味を持ち、明清楽の三宅端蓮に師事して中国伝統の月琴を習得しています。後年、乾堂の音楽活動は小曽根明清楽と呼ばれ、長崎の無形文化財として現在でも残っているそうです。
 
 
乾堂は、先を読む事業家としても大いに活躍した人で、松平春嶽の支援によって父親の六左衛門とともに、浪ノ平の海岸一帯を埋め立てて港湾を整備し、交易の拠点づくりに注力しています。
 
 
また、歴代長崎奉行との交流だけでなく、坂本龍馬勝海舟とも緊密な関係を持ち、海舟の長崎妻(愛人)との間に生まれた子供の面倒を見るなど、マメで人脈づくりには長けている人ですね。大河ドラマ『龍馬伝』でも描かれていますが、事実、龍馬の亀山社中の出資者となり、後に海援隊になってからも拠点は小曽根家に置かれ、物心両面で龍馬を支援していたことが想像できます。
 
 
万延元年(1860)、乾堂が海舟に宛てた手紙の中で「軍艦五百隻の建造と上海、ジャワ、仏、英、蘭に商館を開き、旭の旗を立てたい」という自身の想いを語っています。新しい時代を築いて、大船で世界へ乗り出すという龍馬の夢は、乾堂の夢そのものだったのです。
 
 
明治に入っても、乾堂の活躍は止まらず、明治四年(1871) には日清修好条規締結の全権大使 伊達宗城の随員として清国に渡り、天津では日清修好条規文を書きました。このとき、清国の全権大使に認められて「鎮鼎山房」の額を贈られたりしています。
 
 
晩年には地元地域に目を向け、小曽根小学校(後の長崎市立 浪平小学校)の創設や、寺社の建立、小曾根桟橋の建設、岩崎弥太郎が率いた三菱への高島炭鉱の譲渡斡旋など、これまた精力的に活躍しました。ちなみに、乾堂が創設した浪平小学校は統廃合により130余年の歴史を閉じています。
 
 
乾堂を、粋人とか文人とか、鼻が利く商人とか、大物仲介者いう一言で片付けることは決してできません。小曾根乾堂は、幕末と明治という時代を先取りした開明思想家として評価されるべきでしょう。維新以降の社会情勢や中国貿易、日本の近代化に果たした役割は大きいのです。
 
 
私、小川哲司が乾堂に共感するのは、嗜みや趣味でも手抜きをせず、徹底して学んでモノにする気力。それに何といっても、人の才能や器を見極めて人脈を繋ぐ実行力です。乾堂が現代に居てネットワークビジネスに参加したなら、きっと伝説に残るネットワーカーになったでしょうね。(笑)
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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人は、生まれた瞬間から夢を見て、理想を抱いて人生を歩みます。言い換えれば、人は夢を見る力があるからこそ、明日に希望を繋いで生き、人生を歩み続けられるのかも知れません。
夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。
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