夢見る力を創造力に変えて・・・
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維新の戦いでは、奥羽越列藩同盟は薩長軍に激しく抵抗したため、北越や東北の各地は激しい戦火に見舞われ大勢の犠牲が出ました。それに比べれば幕府直轄領であり、しかも諸藩の出入りが多かった長崎がなぜ戦場にならずに済んだのか不思議ですよね。その謎を解く鍵となるのが、徳川幕府最後の長崎奉行河津佑邦(かわづすけくに)です。
河津は、幕府に任ぜられた最後の長崎奉行で、薩長や土佐と対話して長崎の町が戦火に遭わないよう、長崎奉行所を閉じる決断をした人物でした。河津は、日米通商修好条約が結ばれた五年後、幕府の第二次遣欧使節団の副使としてパリに派遣されエジプトにまで出かけた人でした。帰国後、函館奉行として五稜郭建設に尽し、文久三年(1863)には外国奉行、慶応三年(1867)には勘定奉行並、そして国際情勢にとても明るい人物として抜擢され、第126代長崎奉行に就任します。
ところが、河津が長崎奉行として長崎に到着直前、なんと大政奉還が行なわれたというとんでもない大波乱。しかも、そのわずか20日後には王政復古の大号令が発せられ、翌慶応四年には鳥羽伏見の戦いで幕府軍は薩長軍に惨敗を、将軍慶喜は船で江戸に逃げたという知らせが河津のところに届きます。
長崎の町は、薩摩だけでなく諸藩の浪士が町中を闊歩し、河津は幕府打倒に盛り上がる敵地に置き去りにされたようなものでした。こうして、河津は長崎奉行としていきなり崖っぷちに立たされ、前代未聞のスタートを切りました。
鳥羽伏見の戦いが起きた時点で、長崎でも奉行所と薩長軍の間で衝突が起きるのではないかと憶測が飛び交います。そして、一部では避難騒ぎが起きたり、偶然に浜町界隈から火災が起きたりしました。間が悪いことに、この火災で土佐商会の建物が類焼したりしたため、町中がピリピリと神経を尖らせていたのです。
河津は、さっそく町衆から選任されていた長崎代官の薬師寺久佐衛門に相談した上で意を決し、薩摩藩や土佐藩の代表に対話を求めます。当初、長崎奉行からの申し入れに薩摩と土佐は疑心暗鬼で警戒感を抱いたのも無理はありません。しかし、会合の席で河津の口から出た「長崎に無益な混乱をもたらしたくない」という意外な言葉に一同は驚きました。
「長崎港にはイギリスやらロシアやらの軍艦が居て、まかりまちがえば外国につけ入る隙を与えるかも知れぬ。日本のためを思えば、ここは幕府奉行として退去し西役所も明け渡す、故にその後の治安、町民代表の代官と、長崎駐在の薩摩藩士や土佐藩士に委ねたい」というのが、河津が下した決断でした。
薩摩や土佐の藩士の中には、河津の長崎退去を「まるで脱走の如くだと」揶揄した者もいましたが、長崎の地で、幕府と薩長軍との武力衝突を回避するための勇断だったと評価する意見もあります。長崎退去後、外国事務副総裁、外国事務総裁、若年寄を歴任し、河津は万感の想いで徳川幕府三百年の歴史を見届けました。
河津の人柄が窺えるエピソードが残されています。慶応三年(1867)の浦上の隠れキリシタンの事件を前任者から引き継いだ河津は、捕縛された信徒らの中で唯一改宗を拒み続けている高木仙右衛門を密かに呼び、二人だけで話しました。
河津は「お前を殺すために呼んだのではない」といい、仙右衛門に「今は、信仰の御許しが出るまで心の中でのみ信仰するに留め、表立たないように」と改宗を勧め、穏やかな口調で諭しましたが素直には従う訳もありませんでした。
そこでさらに、「教えの良い事は、フランスに行った自分はよく知っている。しかし、今の情勢では信仰を許す訳にはいかないので、今日は家に帰りよく考えて返答するように」と伝え、金三分を与えて返したと伝えられているそうです。
一機触発の緊張にあった当時の長崎で、一つだけ確かなことは奉行であれ、薩長藩士であれ、町衆であれ、誰もが民衆を巻き込む争いは望んでいなかったのです。未だに河津佑邦の行動には賛否両論ありますが、幕府の威信を示して騒乱を招くのは一番簡単な選択肢でしたが、自ら長崎奉行として体裁を失って江戸に引き上げるということは下手をすれば当時は切腹ものですから、相当な覚悟が必要な決断だったということです。
私自身は、代官の薬師寺久佐衛門の助言をはじめ、長崎の民意を汲んで無益な戦いを避けた、歴史的な河津の覚悟の決断に拍手を贈りたいと思います。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
さてさて拍手を贈りたいといえば・・・♪ ビーイングのボーナスプランに、いよいよ+Active Add up (+アクティブ・アッドアップ)が11月から開始されますね。
Add upとは、合算するという意味です。ストレートなネーミングですみません。。。(笑)
シングルとロイヤルに+Active Add up (+アクティブ・アッドアップ)を導入すると、これまで、ユニットのカウント対象外となっていたセミアクティブと非アクティブのポジションのポイントを合算して、ユニット数カウントとすることになりました。+アクティブ・アッドアップは、シングル/ロイヤルとも共通の概念で行なわれます。
+Active Add up (アクティブ・アッドアップ)方式での計算導入によって、カウントされるユニット数が増えるメリットがあります。※ただし+アクティブ・アッドアップでは、1ポジションで8,000ポイントを超えるボリュームを、ポイントを満たしていない他のポジションに振分けることはできません。
とにかく、名前通りにプラス(+)なニュースです♪ これも理論派で判断力に定評のある小川哲司社長ならではの勇気ある決断の一つですね。
ビーイングカスタマー
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人は、生まれた瞬間から夢を見て、理想を抱いて人生を歩みます。言い換えれば、人は夢を見る力があるからこそ、明日に希望を繋いで生き、人生を歩み続けられるのかも知れません。
夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。
夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。
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