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大河ドラマの「龍馬伝」にも登場しましたが、保守的で陰険でごう慢なイメージに描かれているのが吉田東洋(よしだとうよう)です。
実際の吉田東洋は、気性の荒さと、勤勉さと、柔軟さと、揺るぎない信念を併せ持つ、一風変わったインテリの藩政改革者でしたが、私から見れば、東洋は”いぶし銀”のような魅力を備えた個性に思えるのです。
若い頃、口論で家族を斬り殺して謹慎したり、要職に就いた頃でも、酒のトラブルから江戸で旗本を殴打して罷免されたりと、東洋はまるで”昭和のロックンローラー”のような破天荒な一面を見せた人物ですが、東洋が頭角を現したのは天保十三年(1842)に船奉行から郡奉行へ転任した頃からです。
郡奉行として民政に携わっては、飢饉に備えた藩営の「済農倉」設立を進言したり、船奉行としての経験と実践に学んだ自論をまとめ、海防、法令改正、藩人事に関する意見書「時事五箇条」を提出するなどして、勤勉で地道な人物でもありました。
藩主 山内容堂の信頼を得て、安政四年(1857)冬、東洋は再び参政として藩政に復帰すると、改革意見書「海南政典」を執筆し、藩の経済整備・軍制の改革・開国貿易など、富国強兵を目指した藩政改革を断行します。
東洋は、公武合体の政治姿勢を見せながらも、何より藩政改革に重点を置いて、未だ封建制度が根強かった土佐にあって人材登用制度を見直し、低い身分でも要職に就けるよう改めたり、貧しい若者にも学問の機会を与えるため、藩として文武館を創設、個人でも私学を設けたりしました。
けれども、東洋の急激な改革実行とあまりにも革新的な改革案は、尊皇攘夷を唱えるものの論理に乏しかった土佐勤王党とは対立し、藩の保守勢力にも狙われ、最後には文久二年(1862)、暴走する土佐勤王党の刺客に暗殺されてしまいます。この暗殺については、身分制度復興をもくろむ藩の旧勢力の手引きだとする説もあるほど、東洋の改革は命の危険を伴ったものでした。
東洋の功績は、数々の改革に着手して、藩の財政基盤を築くと同時に秩序を整備した点で非常に大きいものでしたが、私が何より評価するのは、後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎らを育て明治に繋いだ先見性ですね。
事を成すには、学識と、地道に積み上げた経験と、経験に基づく検証と、大胆な発想と決断、そして命がけの揺るがない信念が必要であることを、吉田東洋からも学びとることができます。
吉田東洋の命がけの改革断行は、最高執行責任統括者として、常に最善の計画と思考、そして判断を求められる私にとっても、大変勇気づけられる人物ですね。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。