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吉田松陰(よしだしょういん)といえば、長州藩士で思想家、兵学者、教育者としても大変優れ、明治維新の精神的指導者として今にその名を残しています。
とくに、天下国家は天皇が治め天皇のもとに万民は平等であると主張したことで知られます。これは、当時の幕藩体制を全否定する過激な思想でした。幕府打倒の気運は、この思想から発したといっても過言ではなく、水戸学とともに明治維新の原動力の一つとなりました。
私が松陰に共感したのは、広く世に知られる思想ではなく、高杉晋作との間に交わされた短い手紙の一文でした。
高杉晋作は、安政六年(1859)七月、江戸伝馬町の獄中あった松陰のもとへ「男子たる者の死」について教えを乞う手紙を差し向けています。獄中、松陰は自らの死生観として、晋作に次のように返事をしています。
死は好むべきにも非ず、亦(また)悪むべきにも非ず。
道尽き心安ずるすなわち是死所。
世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。
死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。
(獄中 吉田松陰)
この手紙のあと、松陰は斬首刑に処され、知らせは下関の晋作にも伝えられました。このとき、晋作は身を震わせて怒りを露にし、藩の重職にあった周布政之助への手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と記しています。晋作は、文久二年(1862)藩命によって幕府使節随行員として上海へ渡航し、当時の清国が欧米列強によって植民地化されつつある実態を見て帰国。攘夷実行の決意を固め、時代を駆け抜けてゆきます。
晋作の生き方に、師としての松陰の最期の教えが大きな影響を与えたのは疑いようもありません。
私が、松陰の死生観に出会ったのは、自分自身が癌と闘っていたときでした。そのとき深く感銘を受け、私は死というものがそれほど恐ろしいものだと思わなくなりました。死を恐れるより、むしろ生かされた日々を信じるがまま、懸命に生きる事の大切さを知ったからです。
以来、吉田松陰が高杉晋作に宛てた手紙の一文は私の心の中に息づいており、かつての松陰が書き残した死生観は、今では私の生きるうえでの一つの価値観となっています。死とは、志を果たしたその先にあるもの。たとえ我が身は志の半ばに倒れても、誠を貫く強い信念は、必ず誰かに受け継がれ、いずれは人を動かすこともできます。
ビーイングの会員の皆さんの中で、とりわけ大きな組織をつくり、リーダーとして成功する方々は、強い信念で物事に取組んでいるように感じます。信念に従い精進すること・・・ それが、リーダーの条件なのかも知れませんね。
倒幕派、佐幕派に関わらず、混迷の幕末期を生きた人物には本当に学ぶことが多いですね。維新の英傑の一人、高杉晋作についてはまたこの次にブログで触れることにしましょう・・・
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。