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夢見る力を創造力に変えて・・・
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DSC_0005.jpg 伊達小次郎、陸奥陽之助・・・ 実は同一人物なんですが、武家では幼い頃に幼名を名乗ったり、元服(成人)や出世を契機に名前を変えることがよくあったりして時々混乱します。でも、陸奥宗光(むつむねみつ)というと、分かる人も多いでしょうね。(笑)
 
 
陸奥陽之助(むつようのすけ)は、坂本龍馬の片腕として亀山社中をはじめ海援隊でも活躍した人物でした。維新後は、西郷隆盛や伊藤博文にも一目置かれて、新政府の外務大丞(だゆう)=外務大臣の要職に就いて不平等条約の条約改正に尽くし、日清戦争では、伊藤博文らとともに有利な条件で下関条約に調印し、戦争の後始末をしています。
 
 
陽之助は、天保十五年(1844)、紀州藩士 伊達宗広の六男として生まれます。父親の血筋を辿ると、あの戦国の大名伊達政宗の末っ子 伊達兵部宗勝(陸奥伊達家始祖)に繋がる、いわば武家として名門の家柄です。ですから、海軍操練所へ入校する頃までは伊達小次郎と名乗っています。
 
 
父の宗広は、紀州藩では藩の財政再建をした重臣でしたが、陽之助が8歳の頃、藩内で起きた政争に敗れて失脚してしまい、一家の生活は立ち行かず大変貧窮しました。幼い頃から苦労の耐えない暮しが続きましたが、それでも父の志を受け継ぎ、陽之助は尊皇攘夷への志を胸に秘めて成長します。
 
 
文久三年(1863)、勝海舟が神戸に創設した海軍操練所に入ることで陽之助に転機が訪れます。勝海舟に能力を認められ、坂本龍馬からも信頼されて、以後、龍馬らと終始行動をともにしています。
 
 
周囲から“剃刀”とあだ名されるほど頭脳明晰で知られ、新政府の下では外務大丞、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しましたが、西南戦争では西郷勢に呼応する土佐立志社に加担したとして罪を問われ、明治十一年(1878)禁獄5年の刑を受けてしまいます。
 
 
しかし、明治十五年(1882)政府の恩赦で許され、伊藤博文の薦めもあって欧米に留学し、英国では内閣の制度を学び、オーストリアやハンガリーでは憲法を学んで帰国。陽之助の留学経験は、後に近代国家建設の法的な柱となって活かされました。
 
 
いつも思うことなんですが、幕末から明治の初期の時代というのは、大変な混乱の時代でありながら、同時に努力が実を結び、能力のある者が正当に評価されチャンスを与えられた時代でもあるようです。とはいえ、多くの若者が今の学生では考えられないほど、理想に燃えて学問に励んでいたことは事実です。
 
 
いつの時代にも、世に出てチャンスを掴むには自分自身を磨き、付加価値を決定づける努力が必要だということです。大切なことは、「初心」というか「志」を失わず、信じる道を邁進することなのでしょうね。陸奥宗光の才能は”伊達”ではないのです。(笑)
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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21bee381.jpgアキノノゲシは、道端や休耕田、田畑の畦道など、ほぼ日本全土で見られるキク科の野草です。日本以外では、乾燥地でなければ東アジアや東南アジアでも見られるようです。


“アキノノゲシ”の名前の由来は、春に咲く同じキク科のノゲシ(ハルノゲシ)に少し似ているところからアキノノゲシになったとか。また、アキノノゲシには二種類が確認されていて、葉に切れ目のあるものをアキノノゲシ、切れ目のない細い葉のものを細葉秋乃野芥子(ホソバアキノノゲシ)と分けますが、最近はすっかりホソバアキノノゲシの方が多いようです。


早ければ夏の終わりから咲きはじめ、晩秋の11月頃までが開花期ですが、暖かい気候のせいでしょうか、今年の近畿地方は少し送れて咲きはじめたように思います。淡路島の地では、彼岸花のあとを追うように10月初旬頃から咲きはじめました。


決して派手さはありませんが、ちょうど稲刈りが終わった田んぼの緑を背景に淡い黄色の花を咲かせる姿には、何となく秋らしい風情を感じます。


私は食べたことはありませんが、新芽や若葉が食べられるそうです。苦味が少しあるそうですが、早春頃の日陰の新芽はサラダとして、3月~4月頃の若葉は塩茹でしてから水にさらし、和え物、おひたしにして食べられるそうです。


昔の人は、自然に囲まれて暮らし、自然の中から食べられるものや薬を見つけたりしながら生きてきました。つまり、私たちの祖先は常に自然から学び、自然と共生して四季の移ろいと暮らしを結びつけていたんですね。現代人が、失いつつある自然への畏敬の念と、人は自然と共生している生物の一部なんだという事実を忘れてはいけないような気がします。


近年、地球温暖化の影響で雨のサイクルに乱れが生じたり、ゲリラ豪雨という言葉が生まれたり、雨が降れば、必ず何処かで被害が出てしまいます。また、台風が年々巨大化の傾向にあると心配されていますね。


環境保護や地球温暖化防止の国際的な取り組みも、国や企業の利害が絡むとなかなか進展しません。それよりも、人がもっと自然に接し、自分の身近に感じてみるところからはじまるんじゃないかと、そんな風に思います。


最高執行責任統括者 社長 小川哲司
 

 IMG_8047.jpg
維新の戦いでは、奥羽越列藩同盟は薩長軍に激しく抵抗したため、北越や東北の各地は激しい戦火に見舞われ大勢の犠牲が出ました。それに比べれば幕府直轄領であり、しかも諸藩の出入りが多かった長崎がなぜ戦場にならずに済んだのか不思議ですよね。その謎を解く鍵となるのが、徳川幕府最後の長崎奉行河津佑邦(かわづすけくに)です。
 
 
河津は、幕府に任ぜられた最後の長崎奉行で、薩長や土佐と対話して長崎の町が戦火に遭わないよう、長崎奉行所を閉じる決断をした人物でした。河津は、日米通商修好条約が結ばれた五年後、幕府の第二次遣欧使節団の副使としてパリに派遣されエジプトにまで出かけた人でした。帰国後、函館奉行として五稜郭建設に尽し、文久三年(1863)には外国奉行、慶応三年(1867)には勘定奉行並、そして国際情勢にとても明るい人物として抜擢され、第126代長崎奉行に就任します。
 
 
ところが、河津が長崎奉行として長崎に到着直前、なんと大政奉還が行なわれたというとんでもない大波乱。しかも、そのわずか20日後には王政復古の大号令が発せられ、翌慶応四年には鳥羽伏見の戦いで幕府軍は薩長軍に惨敗を、将軍慶喜は船で江戸に逃げたという知らせが河津のところに届きます。
 
 
長崎の町は、薩摩だけでなく諸藩の浪士が町中を闊歩し、河津は幕府打倒に盛り上がる敵地に置き去りにされたようなものでした。こうして、河津は長崎奉行としていきなり崖っぷちに立たされ、前代未聞のスタートを切りました。
 
 
鳥羽伏見の戦いが起きた時点で、長崎でも奉行所と薩長軍の間で衝突が起きるのではないかと憶測が飛び交います。そして、一部では避難騒ぎが起きたり、偶然に浜町界隈から火災が起きたりしました。間が悪いことに、この火災で土佐商会の建物が類焼したりしたため、町中がピリピリと神経を尖らせていたのです。
 
 
河津は、さっそく町衆から選任されていた長崎代官の薬師寺久佐衛門に相談した上で意を決し、薩摩藩や土佐藩の代表に対話を求めます。当初、長崎奉行からの申し入れに薩摩と土佐は疑心暗鬼で警戒感を抱いたのも無理はありません。しかし、会合の席で河津の口から出た「長崎に無益な混乱をもたらしたくない」という意外な言葉に一同は驚きました。
 
 
「長崎港にはイギリスやらロシアやらの軍艦が居て、まかりまちがえば外国につけ入る隙を与えるかも知れぬ。日本のためを思えば、ここは幕府奉行として退去し西役所も明け渡す、故にその後の治安、町民代表の代官と、長崎駐在の薩摩藩士や土佐藩士に委ねたい」というのが、河津が下した決断でした。
 
 
薩摩や土佐の藩士の中には、河津の長崎退去を「まるで脱走の如くだと」揶揄した者もいましたが、長崎の地で、幕府と薩長軍との武力衝突を回避するための勇断だったと評価する意見もあります。長崎退去後、外国事務副総裁、外国事務総裁、若年寄を歴任し、河津は万感の想いで徳川幕府三百年の歴史を見届けました。
 
 
河津の人柄が窺えるエピソードが残されています。慶応三年(1867)の浦上の隠れキリシタンの事件を前任者から引き継いだ河津は、捕縛された信徒らの中で唯一改宗を拒み続けている高木仙右衛門を密かに呼び、二人だけで話しました。
 
 
河津は「お前を殺すために呼んだのではない」といい、仙右衛門に「今は、信仰の御許しが出るまで心の中でのみ信仰するに留め、表立たないように」と改宗を勧め、穏やかな口調で諭しましたが素直には従う訳もありませんでした。
 
 
そこでさらに、「教えの良い事は、フランスに行った自分はよく知っている。しかし、今の情勢では信仰を許す訳にはいかないので、今日は家に帰りよく考えて返答するように」と伝え、金三分を与えて返したと伝えられているそうです。
 
 
一機触発の緊張にあった当時の長崎で、一つだけ確かなことは奉行であれ、薩長藩士であれ、町衆であれ、誰もが民衆を巻き込む争いは望んでいなかったのです。未だに河津佑邦の行動には賛否両論ありますが、幕府の威信を示して騒乱を招くのは一番簡単な選択肢でしたが、自ら長崎奉行として体裁を失って江戸に引き上げるということは下手をすれば当時は切腹ものですから、相当な覚悟が必要な決断だったということです。
 
 
私自身は、代官の薬師寺久佐衛門の助言をはじめ、長崎の民意を汲んで無益な戦いを避けた、歴史的な河津の覚悟の決断に拍手を贈りたいと思います。
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司




さてさて拍手を贈りたいといえば・・・♪ ビーイングのボーナスプランに、いよいよ+Active Add up (+アクティブ・アッドアップ)が11月から開始されますね。
 
 
Add upとは、合算するという意味です。ストレートなネーミングですみません。。。(笑)
 
 
シングルとロイヤルに+Active Add up (+アクティブ・アッドアップ)を導入すると、これまで、ユニットのカウント対象外となっていたセミアクティブと非アクティブのポジションのポイントを合算して、ユニット数カウントとすることになりました。+アクティブ・アッドアップは、シングル/ロイヤルとも共通の概念で行なわれます。
 
 
+Active Add up (アクティブ・アッドアップ)方式での計算導入によって、カウントされるユニット数が増えるメリットがあります。※ただし+アクティブ・アッドアップでは、1ポジションで8,000ポイントを超えるボリュームを、ポイントを満たしていない他のポジションに振分けることはできません。
 
 
とにかく、名前通りにプラス(+)なニュースです♪ これも理論派で判断力に定評のある小川哲司社長ならではの勇気ある決断の一つですね。
 
 
ビーイングカスタマー
IMG_4402.jpg ビーイングでは、過去3年間の会員活動の実績を分析した結果、マーケティングプランをより適正でバランスの整ったものに改良を加えました。そして、ビーイングの歩みの中でもっともダイナミックな報酬プランが誕生し、諮問委員会で承認され実施が決定しました。
 
 
これまで、ファーストスタートボーナスとして5レベルあったレベル段数を3レベルに圧縮して各ボリュームと配分を調整。これによって、新規会員でもアクティブに活動することが容易となります。さらに、4レベル目からはボーナスランクに応じて3~9%のインフィニティボーナスを新設するなど、ファーストステージがダイナミックに変更されています。
 
 
これによって、これからスタートする新規会員も、新規会員を応援する会員にも、ビジネスに取組む環境が整うことになります。
 
 
詳しくは、来号の会員情報誌「ビータイムズ」または、ビーイングのホームページをご覧ください。
 
 
カスタマーセンターより・・・
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三吉慎蔵(みよししんぞう)は、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』でも少しだけ人物像が描かれていますが、龍馬が心から信頼した人で、身の危険を察知した龍馬が妻を託す手紙を出していた相手でもあります。もっとも、龍馬好きの人なら”槍の慎蔵”として知る人ぞ知るですが、維新後は歴史の表舞台にはほとんど登場していません。
 
 
慎蔵は、維新で活躍した他の秀才肌の志士たちと比べると、決して目立つ存在ではありません。けれども、何より真面目で実直なところが取り柄で、上位者には信頼され仲間からも好かれた人物だったのは確かです。
 
 
慎蔵は、天保二年(1831)、長州属藩の長府藩士小坂土佐九郎の次男として生まれます。嘉永二年(1849)に萩の明倫館に学び、同じ頃、宝蔵院流の小幡源左衛門に師事して槍術の免許皆伝。安政四年(1858)には長州本藩の家臣三吉家の養子に迎えられ、槍の腕を見込まれて藩主の近習扈従役(きんじゅうこじょうやく)に任ぜられています。
 
 
その後、江川太郎左衛門から西洋砲術を学んで、文久三年(1863)には大砲鋳造掛御締方と精兵隊肝煎(きもいり)になっています。肝煎というのは、支配人のようなもので様々な事案を準備調整したり、上下のパイプ役を果たして命令伝達をスムーズにするなど、組織の基幹となる役職です。こうした慎蔵の経歴からも、コツコツ努力をする真面目な性格を垣間見ることができますね。
 
 
そんな、温和で素朴で真面目な慎蔵に運命の出会いがあります。それは坂本龍馬との出会いでした。印藤肇(いんどうはじめ)の紹介で、慎蔵が龍馬と顔合わせしたのは慶応二年(1866)の正月のことで、薩摩藩と長州藩が手を結ぶための本格交渉の直前のことでした。
 
 
慎蔵はこの出会いの直後、時局を探って来るようにと藩主から命を受け、龍馬とともに京へ向かいます。そして1月23日の夜、二人は伏見の寺田屋で幕府の役人の襲撃を受け、慎蔵は槍で応戦、龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦しますが負傷します。慎蔵は京の薩摩藩邸に急を知らせ、龍馬はされて命拾いしました。二人はこの事件で盟友となります。
 
 
長州に戻った慎蔵は、龍馬警護を讃えられ、長州藩主毛利敬親から褒美の刀を下賜され、長府の毛利元周からもえらく褒められ、禄高二十石の加増を受けています。
 
 
維新後、慎蔵は長州出身の要人や明治の元勲たちとも親しく交流を続けましたが、高位や高官を望むことなく豊浦藩権大参事となり、その後、乞われて北白川家の家令を勤めた後、政府の要職に就いた多く友人たちに惜しまれつつ、主君毛利元敏(もうりもととし)につき従って東京を離れ、明治二十三年(1890)に郷里の長府に帰郷。
 
 
郷里に帰ってからも毛利家の家扶として働き、明治三十四年(1901)に病没。慎蔵は、なんと病死する直前まで主君のお世話をしていたといいます。三吉家代々の墓所は法華寺でしたが、毛利家の意向によって、慎蔵は歴代藩主の菩提寺の功山寺に埋葬されます。
 
 
慎蔵は、律儀さと真面目な性格によって、長州藩最後の藩主となった毛利元敏には大変信頼され、晩年はとても親しい間柄だったと伝えられています。
 
 
桂小五郎(木戸孝允)や西郷隆盛、大久保利通や山県有朋など、他の明治の元勲に比べれば不器用ともとれる律儀で素朴な人柄、忠義心、そして誠実さが三吉慎蔵の人物像です。そんな誰にも好かれる人物でしたから、誰からも信頼されたのだと思います。
 
 
激動の時代を生き抜いた志士たちの中にあって、三吉慎蔵は今ではあまり記憶に残らない存在となっていますが、いつの時代にも人は過ぎた欲を持たず、真っ直ぐ誠実に生きるべきだと教えられているように思います。 槍の慎蔵・・・ まさに槍のように真っ直ぐに忠義を貫いた人ですね。
 
 
出世をしたり、財をなしたり、大儀を成したりと人の人生は色々ですが、人との繋がりを大切にして一日一日を真面目に実直に生きることの美しさを、慎蔵のライフスタイルが教えてくれているようです。何かにつけて自己中心になりがちな現代人が失いつつある、誇り高い真っ直ぐな生き方だと感心させられます。
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
 
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人は、生まれた瞬間から夢を見て、理想を抱いて人生を歩みます。言い換えれば、人は夢を見る力があるからこそ、明日に希望を繋いで生き、人生を歩み続けられるのかも知れません。
夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。
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