夢見る力を創造力に変えて・・・
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”おもしろき こともなき世を おもしろく”
この句は、幕末の世の中を一陣の風のように駆け抜けた長州藩士 高杉晋作(たかすぎしんさく)の辞世の句です。
晋作は、気性の激しい一面を持つ秀才でしたが、詩人でもあり、女性にはかなりモテたようでした。晋作には雅子(長州藩 奉行の娘)という正妻がいましたが、萩城下の遊郭の芸妓、此の糸(このいと)=おうのと出会い、桂小五郎や伊藤博文が心配するのを尻目に二人は意気投合して、晋作はおうのを身請けし、以後は時間の許す限り時間をともに過ごしました。
晋作は、萩城下菊屋横丁で二百石の長州藩中級武士の長男坊として生まれます。十四歳で明倫館、十九歳で松下村塾に入門。吉田松陰は入門当初から晋作の才能を見抜いていたといわれ、久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧と呼ばれたそうです。
激しい気性から、”暴れ牛”とあだ名された晋作が表舞台に登場したのは、長州征伐が間近に迫り、また英、米、仏、蘭の四カ国連合艦隊が、攘夷を実行した長州藩に報復攻撃をしかけてきた、長州藩にとっては藩の存亡に関わる大ピンチの時期でした。晋作は、結成して間もない奇兵隊八十名で、長州藩の正規軍を破り、幕府寄りに傾こうとしていた藩のスタンスを一気に討幕へと一変させます。
奇兵隊は、文久三年(1863)に豪商 白石正一郎の屋敷で結成されました。正一郎自身も奇兵隊結成に加わり、晋作を物心両面で支援しました。この奇兵隊の結成が、藩内のムードを決定づけ、維新へと導いたと見るべきだと考えられます。また、維新を解き明かす鍵の一つが奇兵隊にあるともいわれています。
奇兵隊の注目すべき一番の特徴は、”志”があれば庶民でも入隊を許された軍隊組織だったというところです。つまり、武士だけが戦力(武力集団)というこれまでの既成概念を覆すと同時に、長州においては、多くの民衆が新しい時代の到来を予感できる存在になり得たのでした。
慶応二年(1866)、薩長同盟成立直後の第二次長州征伐では、労咳(ろうがい)に冒された体に鞭打って、晋作は長州藩の海軍総督として全身全霊の活躍をします。とくに、奇兵隊などの諸隊を率いて僅か三千の兵で幕府軍に立ち向かい、小倉口では十五万の幕府軍を撃退。こうして幕府の長州征伐は失敗に終わりました。
晋作は、藩の存亡と討幕の夢を賭けた戦いには勝利しましたが、病魔には勝てませんでした。小倉口での勝利した翌年、庄屋 林算九郎の離屋で床についてしまい、おうのの必死の看病も甲斐なく、慶応三年四月十四日、晋作は夢半ばに二十七歳の若さで生涯を閉じてしまいます。晋作の遺体は桂小五郎や伊藤博文、奇兵隊の隊士らによって吉田清水山の奇兵隊本陣近くに埋葬されました。
その後、晋作の墓守をするおうののために、盟友の白石正一郎らが庵(いおり)を建立し、東行庵と名づけています。庵の碑には「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」と、伊藤博文が記した碑銘文が刻まれています。東行庵は、今でも市民や歴史愛好家に親しまれ、多くの人が訪れます。
晋作は、新しい時代を見届けることなく若い命を散らしました。しかし、混沌の時代に武家の時代から民衆の時代の到来を、人々に確信させた功績は計り知れないほど大きかったように思います。幕末期の晋作の活躍は、恐らく当時の長州藩の誰の持論や言葉よりも、民衆の心を捉えたに違いありません。
高杉晋作は長州を維新へと導き、一陣の風のように幕末を駆け抜けました。そんな高杉晋作の生き様に触れるたびに、社長としてビーイングを束ね、統括している私 小川哲司の心をいつも熱くしてくれます・・・。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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幕末期は、コネクションやネットワークに長けていていたため、勤皇派や佐幕派を問わず一目置かれる存在で、しかも篆刻、書画、音曲、骨董と、何をさせても一流で多芸多才で私が個人的にすごく興味を抱いている人物です。
乾堂は、長崎屈指の豪商の家に生まれ、文芸に造詣の深かった父親 六左衛門の期待を受けて、幼い頃から書や南画、篆刻(てんこく)、詩や和歌などを熱心に学んで、感性豊かで多趣味な青年に成長しました。
書は春老谷、水野眉川などの名書家に学び、とくに篆刻では少年の頃から秀でており、自身で印譜「乾堂印譜」や「乾堂印藪」を刊行するなどして高い評価を受け、十四代将軍家茂に謁見して隷書を献上したり、幕末から維新にかけては、度々国璽の改刻を建議したりと活躍しています。音楽にも興味を持ち、明清楽の三宅端蓮に師事して中国伝統の月琴を習得しています。後年、乾堂の音楽活動は小曽根明清楽と呼ばれ、長崎の無形文化財として現在でも残っているそうです。
乾堂は、先を読む事業家としても大いに活躍した人で、松平春嶽の支援によって父親の六左衛門とともに、浪ノ平の海岸一帯を埋め立てて港湾を整備し、交易の拠点づくりに注力しています。
また、歴代長崎奉行との交流だけでなく、坂本龍馬や勝海舟とも緊密な関係を持ち、海舟の長崎妻(愛人)との間に生まれた子供の面倒を見るなど、マメで人脈づくりには長けている人ですね。大河ドラマ『龍馬伝』でも描かれていますが、事実、龍馬の亀山社中の出資者となり、後に海援隊になってからも拠点は小曽根家に置かれ、物心両面で龍馬を支援していたことが想像できます。
万延元年(1860)、乾堂が海舟に宛てた手紙の中で「軍艦五百隻の建造と上海、ジャワ、仏、英、蘭に商館を開き、旭の旗を立てたい」という自身の想いを語っています。新しい時代を築いて、大船で世界へ乗り出すという龍馬の夢は、乾堂の夢そのものだったのです。
明治に入っても、乾堂の活躍は止まらず、明治四年(1871) には日清修好条規締結の全権大使 伊達宗城の随員として清国に渡り、天津では日清修好条規文を書きました。このとき、清国の全権大使に認められて「鎮鼎山房」の額を贈られたりしています。
晩年には地元地域に目を向け、小曽根小学校(後の長崎市立 浪平小学校)の創設や、寺社の建立、小曾根桟橋の建設、岩崎弥太郎が率いた三菱への高島炭鉱の譲渡斡旋など、これまた精力的に活躍しました。ちなみに、乾堂が創設した浪平小学校は統廃合により130余年の歴史を閉じています。
乾堂を、粋人とか文人とか、鼻が利く商人とか、大物仲介者いう一言で片付けることは決してできません。小曾根乾堂は、幕末と明治という時代を先取りした開明思想家として評価されるべきでしょう。維新以降の社会情勢や中国貿易、日本の近代化に果たした役割は大きいのです。
私、小川哲司が乾堂に共感するのは、嗜みや趣味でも手抜きをせず、徹底して学んでモノにする気力。それに何といっても、人の才能や器を見極めて人脈を繋ぐ実行力です。乾堂が現代に居てネットワークビジネスに参加したなら、きっと伝説に残るネットワーカーになったでしょうね。(笑)
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
陸奥陽之助(むつようのすけ)は、坂本龍馬の片腕として亀山社中をはじめ海援隊でも活躍した人物でした。維新後は、西郷隆盛や伊藤博文にも一目置かれて、新政府の外務大丞(だゆう)=外務大臣の要職に就いて不平等条約の条約改正に尽くし、日清戦争では、伊藤博文らとともに有利な条件で下関条約に調印し、戦争の後始末をしています。
陽之助は、天保十五年(1844)、紀州藩士 伊達宗広の六男として生まれます。父親の血筋を辿ると、あの戦国の大名伊達政宗の末っ子 伊達兵部宗勝(陸奥伊達家始祖)に繋がる、いわば武家として名門の家柄です。ですから、海軍操練所へ入校する頃までは伊達小次郎と名乗っています。
父の宗広は、紀州藩では藩の財政再建をした重臣でしたが、陽之助が8歳の頃、藩内で起きた政争に敗れて失脚してしまい、一家の生活は立ち行かず大変貧窮しました。幼い頃から苦労の耐えない暮しが続きましたが、それでも父の志を受け継ぎ、陽之助は尊皇攘夷への志を胸に秘めて成長します。
文久三年(1863)、勝海舟が神戸に創設した海軍操練所に入ることで陽之助に転機が訪れます。勝海舟に能力を認められ、坂本龍馬からも信頼されて、以後、龍馬らと終始行動をともにしています。
周囲から“剃刀”とあだ名されるほど頭脳明晰で知られ、新政府の下では外務大丞、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しましたが、西南戦争では西郷勢に呼応する土佐立志社に加担したとして罪を問われ、明治十一年(1878)禁獄5年の刑を受けてしまいます。
しかし、明治十五年(1882)政府の恩赦で許され、伊藤博文の薦めもあって欧米に留学し、英国では内閣の制度を学び、オーストリアやハンガリーでは憲法を学んで帰国。陽之助の留学経験は、後に近代国家建設の法的な柱となって活かされました。
いつも思うことなんですが、幕末から明治の初期の時代というのは、大変な混乱の時代でありながら、同時に努力が実を結び、能力のある者が正当に評価されチャンスを与えられた時代でもあるようです。とはいえ、多くの若者が今の学生では考えられないほど、理想に燃えて学問に励んでいたことは事実です。
いつの時代にも、世に出てチャンスを掴むには自分自身を磨き、付加価値を決定づける努力が必要だということです。大切なことは、「初心」というか「志」を失わず、信じる道を邁進することなのでしょうね。陸奥宗光の才能は”伊達”ではないのです。(笑)
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
維新の戦いでは、奥羽越列藩同盟は薩長軍に激しく抵抗したため、北越や東北の各地は激しい戦火に見舞われ大勢の犠牲が出ました。それに比べれば幕府直轄領であり、しかも諸藩の出入りが多かった長崎がなぜ戦場にならずに済んだのか不思議ですよね。その謎を解く鍵となるのが、徳川幕府最後の長崎奉行河津佑邦(かわづすけくに)です。
河津は、幕府に任ぜられた最後の長崎奉行で、薩長や土佐と対話して長崎の町が戦火に遭わないよう、長崎奉行所を閉じる決断をした人物でした。河津は、日米通商修好条約が結ばれた五年後、幕府の第二次遣欧使節団の副使としてパリに派遣されエジプトにまで出かけた人でした。帰国後、函館奉行として五稜郭建設に尽し、文久三年(1863)には外国奉行、慶応三年(1867)には勘定奉行並、そして国際情勢にとても明るい人物として抜擢され、第126代長崎奉行に就任します。
ところが、河津が長崎奉行として長崎に到着直前、なんと大政奉還が行なわれたというとんでもない大波乱。しかも、そのわずか20日後には王政復古の大号令が発せられ、翌慶応四年には鳥羽伏見の戦いで幕府軍は薩長軍に惨敗を、将軍慶喜は船で江戸に逃げたという知らせが河津のところに届きます。
長崎の町は、薩摩だけでなく諸藩の浪士が町中を闊歩し、河津は幕府打倒に盛り上がる敵地に置き去りにされたようなものでした。こうして、河津は長崎奉行としていきなり崖っぷちに立たされ、前代未聞のスタートを切りました。
鳥羽伏見の戦いが起きた時点で、長崎でも奉行所と薩長軍の間で衝突が起きるのではないかと憶測が飛び交います。そして、一部では避難騒ぎが起きたり、偶然に浜町界隈から火災が起きたりしました。間が悪いことに、この火災で土佐商会の建物が類焼したりしたため、町中がピリピリと神経を尖らせていたのです。
河津は、さっそく町衆から選任されていた長崎代官の薬師寺久佐衛門に相談した上で意を決し、薩摩藩や土佐藩の代表に対話を求めます。当初、長崎奉行からの申し入れに薩摩と土佐は疑心暗鬼で警戒感を抱いたのも無理はありません。しかし、会合の席で河津の口から出た「長崎に無益な混乱をもたらしたくない」という意外な言葉に一同は驚きました。
「長崎港にはイギリスやらロシアやらの軍艦が居て、まかりまちがえば外国につけ入る隙を与えるかも知れぬ。日本のためを思えば、ここは幕府奉行として退去し西役所も明け渡す、故にその後の治安、町民代表の代官と、長崎駐在の薩摩藩士や土佐藩士に委ねたい」というのが、河津が下した決断でした。
薩摩や土佐の藩士の中には、河津の長崎退去を「まるで脱走の如くだと」揶揄した者もいましたが、長崎の地で、幕府と薩長軍との武力衝突を回避するための勇断だったと評価する意見もあります。長崎退去後、外国事務副総裁、外国事務総裁、若年寄を歴任し、河津は万感の想いで徳川幕府三百年の歴史を見届けました。
河津の人柄が窺えるエピソードが残されています。慶応三年(1867)の浦上の隠れキリシタンの事件を前任者から引き継いだ河津は、捕縛された信徒らの中で唯一改宗を拒み続けている高木仙右衛門を密かに呼び、二人だけで話しました。
河津は「お前を殺すために呼んだのではない」といい、仙右衛門に「今は、信仰の御許しが出るまで心の中でのみ信仰するに留め、表立たないように」と改宗を勧め、穏やかな口調で諭しましたが素直には従う訳もありませんでした。
そこでさらに、「教えの良い事は、フランスに行った自分はよく知っている。しかし、今の情勢では信仰を許す訳にはいかないので、今日は家に帰りよく考えて返答するように」と伝え、金三分を与えて返したと伝えられているそうです。
一機触発の緊張にあった当時の長崎で、一つだけ確かなことは奉行であれ、薩長藩士であれ、町衆であれ、誰もが民衆を巻き込む争いは望んでいなかったのです。未だに河津佑邦の行動には賛否両論ありますが、幕府の威信を示して騒乱を招くのは一番簡単な選択肢でしたが、自ら長崎奉行として体裁を失って江戸に引き上げるということは下手をすれば当時は切腹ものですから、相当な覚悟が必要な決断だったということです。
私自身は、代官の薬師寺久佐衛門の助言をはじめ、長崎の民意を汲んで無益な戦いを避けた、歴史的な河津の覚悟の決断に拍手を贈りたいと思います。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
さてさて拍手を贈りたいといえば・・・♪ ビーイングのボーナスプランに、いよいよ+Active Add up (+アクティブ・アッドアップ)が11月から開始されますね。
Add upとは、合算するという意味です。ストレートなネーミングですみません。。。(笑)
シングルとロイヤルに+Active Add up (+アクティブ・アッドアップ)を導入すると、これまで、ユニットのカウント対象外となっていたセミアクティブと非アクティブのポジションのポイントを合算して、ユニット数カウントとすることになりました。+アクティブ・アッドアップは、シングル/ロイヤルとも共通の概念で行なわれます。
+Active Add up (アクティブ・アッドアップ)方式での計算導入によって、カウントされるユニット数が増えるメリットがあります。※ただし+アクティブ・アッドアップでは、1ポジションで8,000ポイントを超えるボリュームを、ポイントを満たしていない他のポジションに振分けることはできません。
とにかく、名前通りにプラス(+)なニュースです♪ これも理論派で判断力に定評のある小川哲司社長ならではの勇気ある決断の一つですね。
ビーイングカスタマー
三吉慎蔵(みよししんぞう)は、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』でも少しだけ人物像が描かれていますが、龍馬が心から信頼した人で、身の危険を察知した龍馬が妻を託す手紙を出していた相手でもあります。もっとも、龍馬好きの人なら”槍の慎蔵”として知る人ぞ知るですが、維新後は歴史の表舞台にはほとんど登場していません。
慎蔵は、維新で活躍した他の秀才肌の志士たちと比べると、決して目立つ存在ではありません。けれども、何より真面目で実直なところが取り柄で、上位者には信頼され仲間からも好かれた人物だったのは確かです。
慎蔵は、天保二年(1831)、長州属藩の長府藩士小坂土佐九郎の次男として生まれます。嘉永二年(1849)に萩の明倫館に学び、同じ頃、宝蔵院流の小幡源左衛門に師事して槍術の免許皆伝。安政四年(1858)には長州本藩の家臣三吉家の養子に迎えられ、槍の腕を見込まれて藩主の近習扈従役(きんじゅうこじょうやく)に任ぜられています。
その後、江川太郎左衛門から西洋砲術を学んで、文久三年(1863)には大砲鋳造掛御締方と精兵隊肝煎(きもいり)になっています。肝煎というのは、支配人のようなもので様々な事案を準備調整したり、上下のパイプ役を果たして命令伝達をスムーズにするなど、組織の基幹となる役職です。こうした慎蔵の経歴からも、コツコツ努力をする真面目な性格を垣間見ることができますね。
そんな、温和で素朴で真面目な慎蔵に運命の出会いがあります。それは坂本龍馬との出会いでした。印藤肇(いんどうはじめ)の紹介で、慎蔵が龍馬と顔合わせしたのは慶応二年(1866)の正月のことで、薩摩藩と長州藩が手を結ぶための本格交渉の直前のことでした。
慎蔵はこの出会いの直後、時局を探って来るようにと藩主から命を受け、龍馬とともに京へ向かいます。そして1月23日の夜、二人は伏見の寺田屋で幕府の役人の襲撃を受け、慎蔵は槍で応戦、龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦しますが負傷します。慎蔵は京の薩摩藩邸に急を知らせ、龍馬はされて命拾いしました。二人はこの事件で盟友となります。
長州に戻った慎蔵は、龍馬警護を讃えられ、長州藩主毛利敬親から褒美の刀を下賜され、長府の毛利元周からもえらく褒められ、禄高二十石の加増を受けています。
維新後、慎蔵は長州出身の要人や明治の元勲たちとも親しく交流を続けましたが、高位や高官を望むことなく豊浦藩権大参事となり、その後、乞われて北白川家の家令を勤めた後、政府の要職に就いた多く友人たちに惜しまれつつ、主君毛利元敏(もうりもととし)につき従って東京を離れ、明治二十三年(1890)に郷里の長府に帰郷。
郷里に帰ってからも毛利家の家扶として働き、明治三十四年(1901)に病没。慎蔵は、なんと病死する直前まで主君のお世話をしていたといいます。三吉家代々の墓所は法華寺でしたが、毛利家の意向によって、慎蔵は歴代藩主の菩提寺の功山寺に埋葬されます。
慎蔵は、律儀さと真面目な性格によって、長州藩最後の藩主となった毛利元敏には大変信頼され、晩年はとても親しい間柄だったと伝えられています。
桂小五郎(木戸孝允)や西郷隆盛、大久保利通や山県有朋など、他の明治の元勲に比べれば不器用ともとれる律儀で素朴な人柄、忠義心、そして誠実さが三吉慎蔵の人物像です。そんな誰にも好かれる人物でしたから、誰からも信頼されたのだと思います。
激動の時代を生き抜いた志士たちの中にあって、三吉慎蔵は今ではあまり記憶に残らない存在となっていますが、いつの時代にも人は過ぎた欲を持たず、真っ直ぐ誠実に生きるべきだと教えられているように思います。 槍の慎蔵・・・ まさに槍のように真っ直ぐに忠義を貫いた人ですね。
出世をしたり、財をなしたり、大儀を成したりと人の人生は色々ですが、人との繋がりを大切にして一日一日を真面目に実直に生きることの美しさを、慎蔵のライフスタイルが教えてくれているようです。何かにつけて自己中心になりがちな現代人が失いつつある、誇り高い真っ直ぐな生き方だと感心させられます。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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人は、生まれた瞬間から夢を見て、理想を抱いて人生を歩みます。言い換えれば、人は夢を見る力があるからこそ、明日に希望を繋いで生き、人生を歩み続けられるのかも知れません。
夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。
夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
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