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中岡慎太郎の功績は、ともすれば龍馬人気で影に隠れてしまいがちですが、実務派の慎太郎なしでは、薩長連合の実現は不可能だったと私は思います。
中岡慎太郎は、天保九年(1838)土佐の国の安芸の大庄屋の家に生まれ、若くして文武の才能を発揮しました。武市半平太(武市瑞山)の道場に入門し、江戸へも出向きますが、父の死で帰郷して一旦は庄屋を継ぎます。飢饉では、食糧を調達に私財売って村民に配ったり、ゆずの植栽を奨励したりと庄屋としても村民のために尽しました。
文久元年(1861)、武市半平太が土佐勤王党を結成すると慎太郎は合流しますが、半平太は論ずるよりも過激に走り、意見の違う志士の暗殺や吉田東洋も暗殺。公家の三条実美らと結んで、一時は藩政にまで影響を誇示しますが、文久三年(1863) の八月十八日の政変で事態は急変し、土佐勤王党は粛清を受けます。
脱藩した慎太郎は、桂小五郎と接触。長州藩に身を寄せながら活躍しますが、勝海舟に出会ったことで、新しい国づくりには有力諸藩が一丸となって倒幕を実行するほかはないと考えるようになり、慶応元年、慎太郎は時勢論を執筆。翌年にはひそかに示す知己の論を書き綴っています。
禁門の変を経て長州征伐が迫っていた頃、長州に対する幕府の処遇に憤慨した慎太郎は、土佐藩士の土方楠左衛門と二人で薩摩と長州を結ばせようと発起し、密かに高杉晋作に働きかけながら、龍馬にも自分たちの考えを相談します。こうして三人は、薩長同盟に向けて動き出したのでした。
慎太郎は、桂小五郎ら長州藩に対して薩長融和に向けた説得をはじめ、楠左衛門の方は長州藩諸隊の幹部を説得。龍馬の方は、西郷隆盛ら薩摩藩の説得を模索しました。こうした慎太郎や龍馬の骨折りによって薩摩藩と長州藩の和解は成立し、薩長同盟が結ばれました。
慎太郎は現実的な強硬派、龍馬は人当たりのよいリベラル派、慎太郎と龍馬の考えに違いはありましたが、日本に夜明けをもたらす熱意は同じで、後に龍馬は亀山社中を経て海援隊を結成し、慎太郎は陸援隊を組織して幕府打倒と新しい国づくりを目指しました。事件が起きたのはそんな矢先のことです。慶応三年(1867)11月15日、慎太郎は龍馬とともに京の近江屋にて暗殺されてしまいます。
慎太郎が先に襲われ、龍馬が受けた刀傷は三太刀、慎太郎が受けたのは十一太刀ととどめの三太刀でした。二人の墓は、京都東山霊山にあります。
私が、坂本龍馬よりも中岡慎太郎を凄い人物だと尊敬するのは、正確に時勢を捉え、見事に分析している能力のためです。慎太郎が記した時勢論には、古今東西の事例をあげて何のための攘夷なのか、何のための幕府打倒なのかについて触れ、薩長が結んだあとの世の中のカタチを予見したような内容を記しています。
その後のひそかに示す知己の論は、新しい国家建設や世の中の流れ、とくに驚くべき内容は諸外国を分析し、勢力を拡大するロシアの動静を警戒し、38年後に起こる日露戦争のような事態も言い当て想定したものとなっています。
このように、慎太郎と龍馬の異なったところは、慎太郎は持論として過去のあらゆる歴史を紐解いても無血革命など有り得ないと分析判断して、より現実的な武力による幕府打倒を実行しようと考えていたのに対して、龍馬は理想を論じて、血を流さずに達成しようと考えたところでした。
こうして、色々な史実をつき合わせると、龍馬が暗殺されたのは偶然で、実際には理論派として名をあげた中岡慎太郎を狙ったものだという推理が成り立つほど、慎太郎の功績は龍馬以上に大きかったように思います。
時代を振り返れば、確かに龍馬がまだ存命中に大政奉還は成り、龍馬の死後に江戸城の無血開城は行なわれましたが、鳥羽伏見の戦い、函館戦争、戊辰戦争、そして明治へのプロセスは、やはり慎太郎の考えた通り、数多くの若者の血が流れたのは史実です。
中岡慎太郎からは、時流や事態を正確に捉え、状況分析して理論を構築するという英才振りを感じます。同時に、夢や想いを実現するためには周到な計画と実務能力を磨く事が大切であることを学ぶことができます。
皆さんは、龍馬と慎太郎から、どのような事を感じられたでしょうか・・・
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
大河ドラマの「龍馬伝」にも登場しましたが、保守的で陰険でごう慢なイメージに描かれているのが吉田東洋(よしだとうよう)です。
実際の吉田東洋は、気性の荒さと、勤勉さと、柔軟さと、揺るぎない信念を併せ持つ、一風変わったインテリの藩政改革者でしたが、私から見れば、東洋は”いぶし銀”のような魅力を備えた個性に思えるのです。
若い頃、口論で家族を斬り殺して謹慎したり、要職に就いた頃でも、酒のトラブルから江戸で旗本を殴打して罷免されたりと、東洋はまるで”昭和のロックンローラー”のような破天荒な一面を見せた人物ですが、東洋が頭角を現したのは天保十三年(1842)に船奉行から郡奉行へ転任した頃からです。
郡奉行として民政に携わっては、飢饉に備えた藩営の「済農倉」設立を進言したり、船奉行としての経験と実践に学んだ自論をまとめ、海防、法令改正、藩人事に関する意見書「時事五箇条」を提出するなどして、勤勉で地道な人物でもありました。
藩主 山内容堂の信頼を得て、安政四年(1857)冬、東洋は再び参政として藩政に復帰すると、改革意見書「海南政典」を執筆し、藩の経済整備・軍制の改革・開国貿易など、富国強兵を目指した藩政改革を断行します。
東洋は、公武合体の政治姿勢を見せながらも、何より藩政改革に重点を置いて、未だ封建制度が根強かった土佐にあって人材登用制度を見直し、低い身分でも要職に就けるよう改めたり、貧しい若者にも学問の機会を与えるため、藩として文武館を創設、個人でも私学を設けたりしました。
けれども、東洋の急激な改革実行とあまりにも革新的な改革案は、尊皇攘夷を唱えるものの論理に乏しかった土佐勤王党とは対立し、藩の保守勢力にも狙われ、最後には文久二年(1862)、暴走する土佐勤王党の刺客に暗殺されてしまいます。この暗殺については、身分制度復興をもくろむ藩の旧勢力の手引きだとする説もあるほど、東洋の改革は命の危険を伴ったものでした。
東洋の功績は、数々の改革に着手して、藩の財政基盤を築くと同時に秩序を整備した点で非常に大きいものでしたが、私が何より評価するのは、後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎らを育て明治に繋いだ先見性ですね。
事を成すには、学識と、地道に積み上げた経験と、経験に基づく検証と、大胆な発想と決断、そして命がけの揺るがない信念が必要であることを、吉田東洋からも学びとることができます。
吉田東洋の命がけの改革断行は、最高執行責任統括者として、常に最善の計画と思考、そして判断を求められる私にとっても、大変勇気づけられる人物ですね。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。