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夢見る力を創造力に変えて・・・
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大河ドラマ「龍馬伝」効果で、高知を訪ねる人もかなり増えたそうです。龍馬人気で、淡路島でも龍馬にあやかった商品が見られるようになりました。そうでなくても、土佐=坂本龍馬という傾向は否めません。それに、NHKのお陰で益々そんな雰囲気が強くなりましたね。


確かに、幕末となると坂本龍馬の名前が浮かびます。けれども、時代は幕府が弱体化し、欧米列強が次々とアジアに支配の手を伸ばそうとしていた頃ですから、龍馬や攘夷派の志士たちだけではなく、一般の知識人の間にも危機感はありました。攘夷運動の高まりは、何より緊迫した国際情勢の中で、日本各地で必然的に生じたものでした。


元々、攘夷(じょうい)とは、中国の春秋戦国時代に端を発した言葉で、日本での攘夷論の出発点は、近隣諸国を植民地化しはじめた列強への漠然とした不安から、夷人(外国人)を実力行使で排斥しようという、半ば排他的で幼稚な防衛思想がはじまりでした。


攘夷論は、ペリー来航以後、天皇を神格化し「日本は神国」だとした尊王論のナショナリズムと結びつき、「尊皇攘夷論」となって諸藩の若手武士や公卿によって一気に盛り上がりました。そんな風潮から結成されたのが、武市半平太が結成した土佐勤皇党でした。


ところが、薩英戦争や下関戦争というように、外国艦隊と偶発的な武力衝突が起きたことで軍事力の差を思い知り、幼稚な尊皇攘夷論は徐々に淘汰されてゆきました。


それに代わって浮上したのが、諸外国との衝突を避け、国の統一と貿易によって国家基盤を固め、日本の独立を保つという「大攘夷論」でした。一際、攘夷運動が盛んだった薩摩藩と長州藩もこの理論を受けて、時代の流れは「開国論」へと変わるのでした。


「論より証拠・・・」という言葉がありますが、坂本龍馬はまさにそんな人物だったのではないでしょうか・・・龍馬は、大攘夷論に直接触れた訳ではありませんが、龍馬は龍馬のやり方で各地を巡り、大勢の人に出会い、時代の風を肌で感じて、同様のビジョンを持つようになったのでしょうね。それが龍馬のすごい部分であり、時を経てもなお色褪せない魅力なのだと思います。


さて、ビーイングの社長として、マルチ・リンク・マーケット構想を現実のカタチにした私の情熱は、幕末・維新を吹きぬけた時代の風に似ています。金融業界で雇用不安、社会不安を目の当たりにしてきた私は、社会不安を背景に、MLMというネットワークの市場と一般の市場を結びつけ、ネットワークビジネスを多彩でさらに可能性を秘めたマーケットとして位置づけようと思ったからでした。


ですから、流通の理論やシステムは別にしてまずは「論より証拠・・・」会員の皆さんは、龍馬のようにビーイングを肌で感じてみてください。そうすれば、皆さんの末来にも、MLM業界にも、社会にも、新しい変化をもたらすことができると思うのです。

 

最高執行責任統括者 社長 小川哲司
 

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吉田松陰(よしだしょういん)といえば、長州藩士で思想家、兵学者、教育者としても大変優れ、明治維新の精神的指導者として今にその名を残しています。

とくに、天下国家は天皇が治め天皇のもとに万民は平等であると主張したことで知られます。これは、当時の幕藩体制を全否定する過激な思想でした。幕府打倒の気運は、この思想から発したといっても過言ではなく、水戸学とともに明治維新の原動力の一つとなりました。


私が松陰に共感したのは、広く世に知られる思想ではなく、高杉晋作との間に交わされた短い手紙の一文でした。


高杉晋作は、安政六年(1859)七月、江戸伝馬町の獄中あった松陰のもとへ「男子たる者の死」について教えを乞う手紙を差し向けています。獄中、松陰は自らの死生観として、晋作に次のように返事をしています。


死は好むべきにも非ず、亦(また)悪むべきにも非ず。

道尽き心安ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。

(獄中 吉田松陰)


この手紙のあと、松陰は斬首刑に処され、知らせは下関の晋作にも伝えられました。このとき、晋作は身を震わせて怒りを露にし、藩の重職にあった周布政之助への手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と記しています。晋作は、文久二年(1862)藩命によって幕府使節随行員として上海へ渡航し、当時の清国が欧米列強によって植民地化されつつある実態を見て帰国。攘夷実行の決意を固め、時代を駆け抜けてゆきます。


晋作の生き方に、師としての松陰の最期の教えが大きな影響を与えたのは疑いようもありません。


私が、松陰の死生観に出会ったのは、自分自身が癌と闘っていたときでした。そのとき深く感銘を受け、私は死というものがそれほど恐ろしいものだと思わなくなりました。死を恐れるより、むしろ生かされた日々を信じるがまま、懸命に生きる事の大切さを知ったからです。


以来、吉田松陰が高杉晋作に宛てた手紙の一文は私の心の中に息づいており、かつての松陰が書き残した死生観は、今では私の生きるうえでの一つの価値観となっています。死とは、志を果たしたその先にあるもの。たとえ我が身は志の半ばに倒れても、誠を貫く強い信念は、必ず誰かに受け継がれ、いずれは人を動かすこともできます。


ビーイングの会員の皆さんの中で、とりわけ大きな組織をつくり、リーダーとして成功する方々は、強い信念で物事に取組んでいるように感じます。信念に従い精進すること・・・ それが、リーダーの条件なのかも知れませんね。


倒幕派、佐幕派に関わらず、混迷の幕末期を生きた人物には本当に学ぶことが多いですね。維新の英傑の一人、高杉晋作についてはまたこの次にブログで触れることにしましょう・・・

 

最高執行責任統括者 社長 小川哲司
 

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話題の大河ドラマ「龍馬伝」をご覧になっている方も多いのではないかと思いますが、幕末期に歴史を大きく突き動かした、最もドラマチックな出来事が薩長同盟です。この後、時代は維新へと大きく動きはじめるのでした。


犬猿の仲であった薩摩と長州を結びつけた立役者といえば坂本龍馬。そして、京の薩摩藩邸での密約に長州藩からは桂小五郎、一方の薩摩藩の名代として、藩の運命を背負って臨んだのが、敬天愛人の人、西郷隆盛でした。


敬天愛人とは、 「天を敬い、人を愛すること」の意味ですが、敬天愛人という言葉には、西郷の自己修養のための指針と、隆盛自身の信仰的ともいえる天命への自覚と、同時に、正義をまっとうしようとする隆盛の強い信念を感じます。


天に恥ずかしくない生き方、天から与えられた自らの活かし方。そして、人を尊重し、人々を愛しむ心は、 「義」を重んじた薩摩武士のみならず、現代のすべての人々、そして人から人を介するMLM業界にも通じる、大切な根本であるように思います。


物事を成し遂げる強い信念と折れない心。そして、敬天愛人の魂をもつ人、西郷隆盛。日本史の中でも、私の好きな人物の一人で、色々と学ぶべきことが多い人です。


これからも敬天愛人の心で、ビーイングが進むべき道筋を、照らし続けたいと思うこの頃です。

 

株式会社ビーイング
最高執行責任統括者 社長 小川哲司

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BEING STAFF
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人は、生まれた瞬間から夢を見て、理想を抱いて人生を歩みます。言い換えれば、人は夢を見る力があるからこそ、明日に希望を繋いで生き、人生を歩み続けられるのかも知れません。
夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。
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