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『暑さ寒さも彼岸まで』と昔からいいますから、自然もここらで帳簿合わせをする頃合なのでしょうか。先週ぐらいから、暑さも和らぎ随分過ごしやすくなりましたね。それでも、昼間の淡路島はまだまだ30℃を越えてしまう日もあります。
気象庁の用語によれば、日中最高気温が25℃を超える日を夏日、30℃を超えると真夏日、35℃を越えると猛暑日と呼んでいます。巷では、酷暑という言葉も耳にしましたがこれは用語ではないそうです。けれども、今年の夏のピークを振り返ると酷暑という言葉が一番ピッタリな気もしますね。
今年の夏は、恐らく私自身もほとんど経験したことがないほど、厳しい夏だったんじゃないかと思います。お年寄りや、炎天下で作業していた労働者の方にとっては命の危険を伴う夏でした。西日本では猛暑、関東や東北では豪雨と、気候変動が気になりますね。
いつもより、少しばかり早起きして自宅付近の里山を散策してみました。いつまでも暑く季節の歩みは遅いように感じますが、それでも秋は日ごとに存在感を強めているのを感じました。
秋といえば、皆さんが連想したのは食欲の秋と答える方も多いでしょうね。そんな食欲の秋に相応しく、リニューアルして10月に登場するのが新しいメタバランスです。 ”天高く、私肥える秋”とならぬよう、メタボにはご用心ご用心。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
大河ドラマの「龍馬伝」にも登場しましたが、保守的で陰険でごう慢なイメージに描かれているのが吉田東洋(よしだとうよう)です。
実際の吉田東洋は、気性の荒さと、勤勉さと、柔軟さと、揺るぎない信念を併せ持つ、一風変わったインテリの藩政改革者でしたが、私から見れば、東洋は”いぶし銀”のような魅力を備えた個性に思えるのです。
若い頃、口論で家族を斬り殺して謹慎したり、要職に就いた頃でも、酒のトラブルから江戸で旗本を殴打して罷免されたりと、東洋はまるで”昭和のロックンローラー”のような破天荒な一面を見せた人物ですが、東洋が頭角を現したのは天保十三年(1842)に船奉行から郡奉行へ転任した頃からです。
郡奉行として民政に携わっては、飢饉に備えた藩営の「済農倉」設立を進言したり、船奉行としての経験と実践に学んだ自論をまとめ、海防、法令改正、藩人事に関する意見書「時事五箇条」を提出するなどして、勤勉で地道な人物でもありました。
藩主 山内容堂の信頼を得て、安政四年(1857)冬、東洋は再び参政として藩政に復帰すると、改革意見書「海南政典」を執筆し、藩の経済整備・軍制の改革・開国貿易など、富国強兵を目指した藩政改革を断行します。
東洋は、公武合体の政治姿勢を見せながらも、何より藩政改革に重点を置いて、未だ封建制度が根強かった土佐にあって人材登用制度を見直し、低い身分でも要職に就けるよう改めたり、貧しい若者にも学問の機会を与えるため、藩として文武館を創設、個人でも私学を設けたりしました。
けれども、東洋の急激な改革実行とあまりにも革新的な改革案は、尊皇攘夷を唱えるものの論理に乏しかった土佐勤王党とは対立し、藩の保守勢力にも狙われ、最後には文久二年(1862)、暴走する土佐勤王党の刺客に暗殺されてしまいます。この暗殺については、身分制度復興をもくろむ藩の旧勢力の手引きだとする説もあるほど、東洋の改革は命の危険を伴ったものでした。
東洋の功績は、数々の改革に着手して、藩の財政基盤を築くと同時に秩序を整備した点で非常に大きいものでしたが、私が何より評価するのは、後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎らを育て明治に繋いだ先見性ですね。
事を成すには、学識と、地道に積み上げた経験と、経験に基づく検証と、大胆な発想と決断、そして命がけの揺るがない信念が必要であることを、吉田東洋からも学びとることができます。
吉田東洋の命がけの改革断行は、最高執行責任統括者として、常に最善の計画と思考、そして判断を求められる私にとっても、大変勇気づけられる人物ですね。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
大河ドラマ「龍馬伝」効果で、高知を訪ねる人もかなり増えたそうです。龍馬人気で、淡路島でも龍馬にあやかった商品が見られるようになりました。そうでなくても、土佐=坂本龍馬という傾向は否めません。それに、NHKのお陰で益々そんな雰囲気が強くなりましたね。
確かに、幕末となると坂本龍馬の名前が浮かびます。けれども、時代は幕府が弱体化し、欧米列強が次々とアジアに支配の手を伸ばそうとしていた頃ですから、龍馬や攘夷派の志士たちだけではなく、一般の知識人の間にも危機感はありました。攘夷運動の高まりは、何より緊迫した国際情勢の中で、日本各地で必然的に生じたものでした。
元々、攘夷(じょうい)とは、中国の春秋戦国時代に端を発した言葉で、日本での攘夷論の出発点は、近隣諸国を植民地化しはじめた列強への漠然とした不安から、夷人(外国人)を実力行使で排斥しようという、半ば排他的で幼稚な防衛思想がはじまりでした。
攘夷論は、ペリー来航以後、天皇を神格化し「日本は神国」だとした尊王論のナショナリズムと結びつき、「尊皇攘夷論」となって諸藩の若手武士や公卿によって一気に盛り上がりました。そんな風潮から結成されたのが、武市半平太が結成した土佐勤皇党でした。
ところが、薩英戦争や下関戦争というように、外国艦隊と偶発的な武力衝突が起きたことで軍事力の差を思い知り、幼稚な尊皇攘夷論は徐々に淘汰されてゆきました。
それに代わって浮上したのが、諸外国との衝突を避け、国の統一と貿易によって国家基盤を固め、日本の独立を保つという「大攘夷論」でした。一際、攘夷運動が盛んだった薩摩藩と長州藩もこの理論を受けて、時代の流れは「開国論」へと変わるのでした。
「論より証拠・・・」という言葉がありますが、坂本龍馬はまさにそんな人物だったのではないでしょうか・・・龍馬は、大攘夷論に直接触れた訳ではありませんが、龍馬は龍馬のやり方で各地を巡り、大勢の人に出会い、時代の風を肌で感じて、同様のビジョンを持つようになったのでしょうね。それが龍馬のすごい部分であり、時を経てもなお色褪せない魅力なのだと思います。
さて、ビーイングの社長として、マルチ・リンク・マーケット構想を現実のカタチにした私の情熱は、幕末・維新を吹きぬけた時代の風に似ています。金融業界で雇用不安、社会不安を目の当たりにしてきた私は、社会不安を背景に、MLMというネットワークの市場と一般の市場を結びつけ、ネットワークビジネスを多彩でさらに可能性を秘めたマーケットとして位置づけようと思ったからでした。
ですから、流通の理論やシステムは別にしてまずは「論より証拠・・・」会員の皆さんは、龍馬のようにビーイングを肌で感じてみてください。そうすれば、皆さんの末来にも、MLM業界にも、社会にも、新しい変化をもたらすことができると思うのです。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
吉田松陰(よしだしょういん)といえば、長州藩士で思想家、兵学者、教育者としても大変優れ、明治維新の精神的指導者として今にその名を残しています。
とくに、天下国家は天皇が治め天皇のもとに万民は平等であると主張したことで知られます。これは、当時の幕藩体制を全否定する過激な思想でした。幕府打倒の気運は、この思想から発したといっても過言ではなく、水戸学とともに明治維新の原動力の一つとなりました。
私が松陰に共感したのは、広く世に知られる思想ではなく、高杉晋作との間に交わされた短い手紙の一文でした。
高杉晋作は、安政六年(1859)七月、江戸伝馬町の獄中あった松陰のもとへ「男子たる者の死」について教えを乞う手紙を差し向けています。獄中、松陰は自らの死生観として、晋作に次のように返事をしています。
死は好むべきにも非ず、亦(また)悪むべきにも非ず。
道尽き心安ずるすなわち是死所。
世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。
死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。
(獄中 吉田松陰)
この手紙のあと、松陰は斬首刑に処され、知らせは下関の晋作にも伝えられました。このとき、晋作は身を震わせて怒りを露にし、藩の重職にあった周布政之助への手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と記しています。晋作は、文久二年(1862)藩命によって幕府使節随行員として上海へ渡航し、当時の清国が欧米列強によって植民地化されつつある実態を見て帰国。攘夷実行の決意を固め、時代を駆け抜けてゆきます。
晋作の生き方に、師としての松陰の最期の教えが大きな影響を与えたのは疑いようもありません。
私が、松陰の死生観に出会ったのは、自分自身が癌と闘っていたときでした。そのとき深く感銘を受け、私は死というものがそれほど恐ろしいものだと思わなくなりました。死を恐れるより、むしろ生かされた日々を信じるがまま、懸命に生きる事の大切さを知ったからです。
以来、吉田松陰が高杉晋作に宛てた手紙の一文は私の心の中に息づいており、かつての松陰が書き残した死生観は、今では私の生きるうえでの一つの価値観となっています。死とは、志を果たしたその先にあるもの。たとえ我が身は志の半ばに倒れても、誠を貫く強い信念は、必ず誰かに受け継がれ、いずれは人を動かすこともできます。
ビーイングの会員の皆さんの中で、とりわけ大きな組織をつくり、リーダーとして成功する方々は、強い信念で物事に取組んでいるように感じます。信念に従い精進すること・・・ それが、リーダーの条件なのかも知れませんね。
倒幕派、佐幕派に関わらず、混迷の幕末期を生きた人物には本当に学ぶことが多いですね。維新の英傑の一人、高杉晋作についてはまたこの次にブログで触れることにしましょう・・・
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
9月に入ってもまだまだ暑い日が続きますが、それでも、淡路島は夜になると多少過ごしやすくなってきました。異例の酷暑の夏でしたが、秋は少しずつ近づいてきているようです。そんな秋に気づいたのも、日曜の早朝に近所の里山を散策して仙人草(センニンソウ)の花に出会ったからでした。
仙人草は、まるで夏の終わりを告げるようにして立秋の頃から咲きはじめる花ですが、今年は暑さのせいか開花が遅れたようです。仙人草はキンポウゲ科のツル草で、日当たりのよい雑木林の入口なんかによく見られ、周りの雑木にもたれるように咲くのが特徴です。
都市ではなかなか見られないですが、仙人草は全国で見られる花で、少し山あいの地域ではどこでも見ることができます。一つ一つの花は目立たない小さな花ですが、密生して咲くのでとても清楚で綺麗です。見た目は可憐な花ですが、うっかり手を触れてしまうと被れることもあるので眺めるだけにしてください。
しばらくぶりの散策で見つけた白い花は、私に秋の涼味を運んでくれたようでした。忙しさのあまり、人はついつい季節を見逃しがちですが、見つめれば自然はちゃんと応えてくれますね。
物事も同じですね。自身が関心をもって注意深く見渡せば、世の中の政治も、経済も、流行も、社会現象でさえも見通しができるものです。色んな事が、見ようとする心さえ持てば、見えてくるものなのですね。
さて、マルチ・リンク・マーケットもスタートしました。ここらでもう一度、ビーイングのよさを再発見してみてはいかがでしょう。
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。