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夢見る力を創造力に変えて・・・
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皆さんは、立見尚文(たつみなおふみ)をご存知でしょうか。立見は薩長天下の明治にありながら、陸軍大将にまで昇進した旧幕府出身の軍人でした。
 
 
立見は、元々は桑名藩士ですが幕府軍に出向してフランス式用兵術を学んでいます。鳥羽伏見の戦いに破れた将軍慶喜の謹慎後も徹底抗戦を主張して、桑名藩の軍の立て直しを図り、土方歳三らと合流して宇都宮城の戦いで戦功を挙げました。
 
 
北越戦争では、鳥羽伏見以来、無傷で北上してきた薩長軍に対し、自ら雷神隊を率いて何度も撃破し敗走させています。とくに朝日山の争奪戦では、奇兵隊参謀の時山直八を討ち取るなど、敗色濃厚な幕府軍の中にあって立見が指揮した雷神隊は突出した戦果を挙げました。
 
 
そんな無敵の立見も、幕府軍とともに会津若松に続き、出羽国で最後の戦いに挑みますが、奥羽列藩同盟で最後まで抵抗していた庄内藩が降伏してしまったため、立見の部隊も仕方なく従い、薩長軍に降伏しました。
 
 
無敵の立見も、薩長から見れば賊軍でした・・・ 立見は一時謹慎していましたが、スタートしたばかりの明治新政府も順風満帆とは行かず、各地で士族の反乱が起きるようになるなど、危機に陥った新政府は立見の並外れた指揮能力に目をつけました。そして、立見は明治政府の軍人として再び活躍の場を与えられます。
 
 
西南戦争では、少佐として旅団の大隊を指揮。日清戦争では陸軍少将として歩兵第十旅団を指揮。さらに、陸軍大学校長事務取扱や台湾総督府軍務局長を歴任しました。
 
 
そんな、立見の名声が頂点に達したのが、明治三十七年(1904)年にはじまった日露戦争でした。黒溝台の会戦では第八師団を率い、窮地に立つ秋山好古(あきやまよしふる)の支隊を救援に向かい、総兵力2万で10万のロシア軍部隊を相手に夜襲攻撃を仕掛け、師団の半数を失いながらロシア軍を撤退させ黒溝台を奪還します。この黒溝台の勝利は、日露戦争の陸の戦いにおいて日本軍の戦線崩壊の危機を救った勝利でした。
 
 
黒溝台の会戦中、立見の司令部周囲には砲弾が飛び交っていたため、部下たちが司令部内に安全な避弾所をつくります。しかし、立見はそこには入らず、「ずいぶん砲弾がやってくるな」と煙草を燻らせながらつぶやきつつ、弾がかすめる外で指揮をとり続けたといいます。
 
 
「黒鳩(クロパトキン)が 蜂(第八師団)にさされて逃げ去れり もはや来んかと 立ち見けるかな」と、後に黒溝台の会戦を回顧してこんな歌が詠まれています。
 
 
日露戦争の翌年、立見は戦功により陸軍大将に昇進しますが、その翌年に63歳で没。”不敗の将軍”は軍の伝説となりました・・・
 
 
戦いに挑む立見の姿勢は、終始、指揮官は前線の先頭に立つというもの。立見の一種”男の美学”ともいうべき戦い方は、多くの将兵の心を惹きつけ、厚い信頼を得て部隊の士気を大いに高めました。苦難に直面したとき、組織を率いる管理職あるいは経営責任者はどうあるべきかを、立見尚文からは教えられますね。
 
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
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幕末期から維新にかけて、幕府側でもっとも有名で人気の高い人物といえば勝海舟でしょう。けれども、いくら弱体化していたとはいえ幕府は人材の宝庫でしたから、立場は違っても経験と学識を備え、同じように誠実に国の末来を考えていた人は大勢いた訳です。
 
 
横須賀造船所の建設に尽くした、小栗忠順(おぐりただまさ)もそんな有能な人材の一人でした。小栗は秀才で名高かった幕臣で、ずば抜けた先見性で日本の末来を描き、近代工業の基礎づくりと日本の造船技術の発展に貢献した人物です。
 
 
使節として渡米したことを契機に、小栗は列強の技術力と産業に着目します。そして小栗が目指し考えたのは、後の明治政府が目標と掲げた「富国強兵論」そのもので、諸外国の技術を積極的に吸収し、重工業と産業振興と軍備増強によって、アジア諸国の中から日本が一歩先に、欧米列強に台頭するというものでした。
 
 
その第一段階として、まず幕府が成すべき急務は西洋式軍艦の建造技術を手にするというもので、深刻な財政難にあった幕府からは、当然反対する者も多かったようです。それでも、当時勘定奉行だった小栗は、「造船所をつくらなければ、金は何かで無駄に使われるのであるから、造船所をつくれば無駄使いが抑えられる 仮に幕府が政権を返上したとしても名誉は残る」と、周囲の反論を封じたそうです。
 
 
こうして小栗の情熱によって、幕府のプロジェクトは慶応元年(1866)、フランスの技術協力で開始されましたが、完成を目前にしながら大政奉還を迎えてしまいます。皮肉にも、小栗が情熱を注いだ一大事業は小栗の死後に花開くことになるのでした。
 
 
小栗本人は、将軍慶喜の新政府への恭順に反対し、さらに大政奉還後も薩長への主戦論を唱えますが聞き容れられずに慶応四年(1868)に罷免され、上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠遁。寺を住まいとして、塾や田畑の整備に明け暮れていましたが、突然薩長に逮捕され、翌日斬首されてしまいました。
 
 
小栗が思い描いた日本を、小栗自身は見ることができませんでした。けれども、小栗の構想は明治新政府に引き継がれ、明治四年(1871)、東洋一の造船ドックとして完成し、明治九年(1876)年には、念願だった国産初の軍艦「清輝」が竣工。それは、小栗が撒いた一粒の種から、日本の重工業が芽吹いた瞬間でした。
 
 
その後、明治十七年(1884)には横須賀鎮守府が設けられ、横須賀は日本海軍の本拠地として賑わうことになります。また、明治三十九年(1903)には横須賀海軍工廠となり、重巡洋艦「妙高」、「高雄」や航空母艦など、実に数多くの艦艇が横須賀造船所で建造されました。
 
 
終戦後も、小栗が残した横須賀造船所のドックは残り、米軍の施設として艦船の修理に今もなお活用されています。また、幕末から稼動し続けたスチームハンマーは、なんと平成十二年(2000)まで実に128年間も稼動したといいますから本当に驚きですね。
 
 
明治の元勲(げんくん)という言葉があります。この言葉は、明治維新に功績があり、以降の政治や行政に貢献した人を讃える言葉です。私は、勘定奉行の小栗忠順こそ、明治の元勲と呼ばれるに相応しい人だったのではないかと思うのです。
 
 
幕末の勘定奉行小栗忠順は、もっともっと高く評価されるべき人です。少なくとも、小栗は日本に重工業の夜明けをもたらしました。もしも、小栗がいなければ、日本の重工業は半世紀遅れたでしょう。三井、三菱、住友ももっとあとの時代になったことでしょう。もしかすると、日本は途上国のまま、欧米やロシア、あるいは中国に呑み込まれ、支配されていたかも知れません。
 
 
重工業は明治・大正・昭和と、その後100年以上もの間、国家形成と産業発展の要となった訳ですから、小栗の業績はとてつもなく偉大だったのです。
 
 
小栗の生き方には、時代を掴む先見性と、事の本質や重要性を見抜く眼力、同時に直参旗本の武士としての誇りを垣間見ることができます。先見性と異色の才能を持ち、幕臣の中では異端者とまで揶揄された小栗忠順。私、小川哲司の心の中のヒーローであり続けることでしょう・・・
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
 
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慶応四年(1868)年、勝海舟と西郷隆盛の会談によって、江戸城の明け渡しが流血に至ることなく行なわれました。この江戸城無血開城の交渉実現に尽力したのが山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)でした。鉄舟は、会談実現に先立つ予備交渉のために、たった一人で官軍が駐留する駿府へ行き、西郷と面会して直談判をした行動派の人物です。
 
 
予備交渉に際して鉄舟に接した西郷は、”金も要らぬ、名誉も要らぬ、命も要らぬという人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない”と、鉄舟の捨て身の行動力と精神力を絶賛したといいます。
 
 
鉄舟はどんな人物だったのでしょう。鉄舟は、代々武芸を重んじる直参旗本の家に生まれ、9歳で柳生神陰流を学びます。後に樫原流槍術、北辰一刀流、小野派一刀流免許皆伝と武芸に秀で、かと思えば禅にも通じ、書家としても大成した文武両道の英才でした。
 
 
幕臣として仕える一方、安政四年(1857)幕臣の清河八郎とともに虎尾の会を結成して尊王攘夷を唱えたり、文久三年(1863)には再び清河らと新撰組の母体となった浪士組を結成したりしますが、清河の活動を危険視した幕府に目をつけられ、清河暗殺後には一時謹慎処分となっていました。
 
 
鉄舟は、もともと仏教や説法が嫌いな性分でしたが、風雲急を告げ世の中が急激に変化しようとしていた時期、恐らく彼は挫折感を味わい、迷いや焦りも感じていたことでしょう。このとき、鉄舟は寺の門をたたいて禅の精神世界を学びはじめました。以来、剣の道と禅道は彼の大きな心の礎(いしずえ)となり、終生のライフワークとなったようです。
 
 
その後、幕府軍の歩兵頭(かしら)となっていた鉄舟に大きな転機が訪れました。新政府軍が駿府に迫っていた慶応四年2月、幕府の全権は勝海舟に委ねられ、将軍慶喜は新政府への恭順を示して上野の寛永寺に謹慎。歴史は徳川幕府の終焉へと大きく動いたのでした。
 
 
徳川政権の幕引きを担った勝は、事態を平和的に収拾するため、鉄舟に西郷に宛てた書簡を託します。突然のことに鉄舟が戸惑ったのも無理はありませんでした。その頃の鉄舟は、刀を売り払うほど暮らしは困窮していたからです。それでも、勝の信頼に応えようと親友に刀を借りてまで身支度を整え、危険で困難な任務を果たそうとします。
 
 
そして、勝と西郷の会談の二日前のこと。鉄舟は官軍が警備する中を突破し、ようやく西郷に会うと書簡を手渡し、予備交渉に挑みました。西郷からは、当初「江戸城は速やかに明け渡すこと」、「城下の家臣は全員向島に移すこと」、「武器弾薬類を残らず差し出すこと」、「軍艦は一隻残らず新政府に引き渡すこと」、「将軍慶喜の身柄は備前藩に預ける」という五つ降伏条件を出されました。
 
 
しかし、鉄舟は西郷の四つの条件は即座に受け入れましたが、慶喜を備前藩預けとすることには、「島津侯が同じ立場なら、あなたはこの条件を受け入れないはず・・・」と反論し、きっぱりと拒絶しました。結局、西郷は鉄舟に折れて、江戸城開城に向けた勝海舟と西郷隆盛の会談は実現しました。そして、慶応四年(1868)4月11日、江戸城は血を流すことなく新政府に明け渡され、将軍慶喜は上野の寛永寺を離れ水戸へ向かいました。
 
 
徳川方の幕臣でありながら、鉄舟に対する西郷の信頼は厚く、後に静岡藩権大参事をはじめ、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔(宮内庁事務次官)などの要職を歴任するなど明治政府にも重用され、明治二十年(1887)には長年の功績によって子爵を受任。
 
 
私は、単身で乗り込み、西郷隆盛を相手に「No(ノー)」を突きつけた山岡鉄舟の行動力と度胸に感心してしまいます。鉄舟は、卓越した行動力とスゴ腕の交渉術のネゴシエーター(交渉人)だったに違いありません。
 
 
西郷との予備交渉で見せた、堂々とした態度の源は、まず武士としての「剣術」の腕前。そして不遇のときの支えとした「禅」でしょうか。幼少から鍛え上げた武芸は彼の度胸の骨格となり、不遇のときに身につけた柔軟性によってさらに人格は磨かれ、鉄舟は使命を果せたんだと思います。
 
 
物事を成すには、ときに「度胸」と「オシ」が大切なときがあります。しかし、それには常々から自分を鍛え上げ、有事に備える心構えが必要ですね。山岡鉄舟からは、自らを鍛えることの大切さと、柔軟な心を養う必要性を学ぶことができます。
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司
 
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こぞ見てし 秋の月夜は照らせども 相見し妹は いや年さかる(柿本人麻呂)
 
 
人麻呂が詠んだ数ある歌のうちの一首ですが、大切な妻を亡くし、一人身となった切なさを、仲秋の月夜の物静かさに重ねて詠んだ万葉の名歌です。現代語に訳すと、今宵眺める月は、少しも変わりなく美しい月夜だけど、あの頃寝所で一緒に眺めていたお前とは、どんどんと年齢が離れてゆくよ・・・と、まぁこんな感じでしょうか。
 
 
風習としての月見は、旧暦の8月15日の仲秋「十五夜」と、旧暦9月13日の「十三夜」の二つがあります。月見が庶民の間にも盛んだった江戸の遊郭では、十五夜の月だけを見て十三夜の月を見ない客を、片見月と称して嫌ったそうです。本場の中国では、仲秋節は祝日となり、現在でも月餅(げっぺい)を食べて家族で月見をするようです。
 
 
仲秋は十五夜を指します。古来、日本では単に月を愛でた習慣はありましたが、奈良時代までは祭事ではありませんでした。平安時代、中国から十五夜の月見の祭事が伝わると、宮廷を中心に「観月の宴」や、「舟遊び」で歌詠みの宴が催されたりして、貴族の間ではちょっとしたブームとなります。
 
 
日本の月見は、こうして輸入イベントとしてはじまりましたが、その後に独自の発展をして、豊作を祈願する満月法会となったり、ススキを飾って月見団子や栗、里芋、栗、御酒に月見料理を用意して月を眺めるようになります。面白いことに、平安貴族の月見は直接月を観るのではなく、酒杯や池の水面に映る月の風情を楽しむとても風雅なものでした。
 
 
一般に、十五夜の月を中秋の名月といいますが、里芋の収穫期と重なるため、一部には芋名月(いもめいげつ)とも呼んだりもします。また、ちょうど秋雨の季節で、月が雲に隠れる確立が高いことから無月(むげつ)や雨月(うげつ)とも呼ばれ、おぼろげな明るい情景を楽しむ精神文化に発展させています。
 
 
さて、今年の仲秋はちょうど彼岸と重なる9月22日だそうです。皆さんは、誰とどんな気持ちで月を眺めることでしょう。
 
 
最高執行責任統括者 社長 小川哲司

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中岡慎太郎の功績は、ともすれば龍馬人気で影に隠れてしまいがちですが、実務派の慎太郎なしでは、薩長連合の実現は不可能だったと私は思います。


中岡慎太郎は、天保九年(1838)土佐の国の安芸の大庄屋の家に生まれ、若くして文武の才能を発揮しました。武市半平太(武市瑞山)の道場に入門し、江戸へも出向きますが、父の死で帰郷して一旦は庄屋を継ぎます。飢饉では、食糧を調達に私財売って村民に配ったり、ゆずの植栽を奨励したりと庄屋としても村民のために尽しました。


文久元年(1861)、武市半平太が土佐勤王党を結成すると慎太郎は合流しますが、半平太は論ずるよりも過激に走り、意見の違う志士の暗殺や吉田東洋も暗殺。公家の三条実美らと結んで、一時は藩政にまで影響を誇示しますが、文久三年(1863) の八月十八日の政変で事態は急変し、土佐勤王党は粛清を受けます。


脱藩した慎太郎は、桂小五郎と接触。長州藩に身を寄せながら活躍しますが、勝海舟に出会ったことで、新しい国づくりには有力諸藩が一丸となって倒幕を実行するほかはないと考えるようになり、慶応元年、慎太郎は時勢論を執筆。翌年にはひそかに示す知己の論を書き綴っています。


禁門の変を経て長州征伐が迫っていた頃、長州に対する幕府の処遇に憤慨した慎太郎は、土佐藩士の土方楠左衛門と二人で薩摩と長州を結ばせようと発起し、密かに高杉晋作に働きかけながら、龍馬にも自分たちの考えを相談します。こうして三人は、薩長同盟に向けて動き出したのでした。


慎太郎は、桂小五郎ら長州藩に対して薩長融和に向けた説得をはじめ、楠左衛門の方は長州藩諸隊の幹部を説得。龍馬の方は、西郷隆盛ら薩摩藩の説得を模索しました。こうした慎太郎や龍馬の骨折りによって薩摩藩と長州藩の和解は成立し、薩長同盟が結ばれました。


慎太郎は現実的な強硬派、龍馬は人当たりのよいリベラル派、慎太郎と龍馬の考えに違いはありましたが、日本に夜明けをもたらす熱意は同じで、後に龍馬は亀山社中を経て海援隊を結成し、慎太郎は陸援隊を組織して幕府打倒と新しい国づくりを目指しました。事件が起きたのはそんな矢先のことです。慶応三年(1867)11月15日、慎太郎は龍馬とともに京の近江屋にて暗殺されてしまいます。


慎太郎が先に襲われ、龍馬が受けた刀傷は三太刀、慎太郎が受けたのは十一太刀ととどめの三太刀でした。二人の墓は、京都東山霊山にあります。


私が、坂本龍馬よりも中岡慎太郎を凄い人物だと尊敬するのは、正確に時勢を捉え、見事に分析している能力のためです。慎太郎が記した時勢論には、古今東西の事例をあげて何のための攘夷なのか、何のための幕府打倒なのかについて触れ、薩長が結んだあとの世の中のカタチを予見したような内容を記しています。


その後のひそかに示す知己の論は、新しい国家建設や世の中の流れ、とくに驚くべき内容は諸外国を分析し、勢力を拡大するロシアの動静を警戒し、38年後に起こる日露戦争のような事態も言い当て想定したものとなっています。


このように、慎太郎と龍馬の異なったところは、慎太郎は持論として過去のあらゆる歴史を紐解いても無血革命など有り得ないと分析判断して、より現実的な武力による幕府打倒を実行しようと考えていたのに対して、龍馬は理想を論じて、血を流さずに達成しようと考えたところでした。


こうして、色々な史実をつき合わせると、龍馬が暗殺されたのは偶然で、実際には理論派として名をあげた中岡慎太郎を狙ったものだという推理が成り立つほど、慎太郎の功績は龍馬以上に大きかったように思います。


時代を振り返れば、確かに龍馬がまだ存命中に大政奉還は成り、龍馬の死後に江戸城の無血開城は行なわれましたが、鳥羽伏見の戦い、函館戦争、戊辰戦争、そして明治へのプロセスは、やはり慎太郎の考えた通り、数多くの若者の血が流れたのは史実です。


中岡慎太郎からは、時流や事態を正確に捉え、状況分析して理論を構築するという英才振りを感じます。同時に、夢や想いを実現するためには周到な計画と実務能力を磨く事が大切であることを学ぶことができます。


皆さんは、龍馬と慎太郎から、どのような事を感じられたでしょうか・・・


最高執行責任統括者 社長 小川哲司

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人は、生まれた瞬間から夢を見て、理想を抱いて人生を歩みます。言い換えれば、人は夢を見る力があるからこそ、明日に希望を繋いで生き、人生を歩み続けられるのかも知れません。
夢は、創造し、形に変えてこそ手に入れることができます。価値観は異なっても、誰もが理想や夢を持っています。
けれども、人の命には限りがあります。つまり、夢を追う時間は限られているのです。一人ひとりの人生が、かけがえのないものだからこそ、一人でも多くの人に、夢を実現する創造力を身につけて欲しいのです。
私は、そんな手助けができれば、大変幸せに思います。
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